そんな夜にグラムノン (2000/09/16) |
マサヒロがそのボトルのキャップシールを剥がし、1999と刻印されたコルクにソムリエナイフをあてた後、スクリューを四回転半させ音を立てずに美しくコルクを拭いたところで、玲子の携帯電話が鳴った。 「おい。また仕事かよ」 「ごめんね。クレーム発生したみたい。しょうがないじゃない。仕事なんだから。ちょっと会社戻るね。あ。ご飯先食べてていいよ。今日子のあの調子だと、何時になるか分からないし、会社に泊まるまるようなら電話するね。せっかくの夕食なのに、ごめんね」 マサヒロと玲子は結婚して間もないが、互いに仕事をもっているため自宅で夕食を共にすることは少なかった。結婚前のほうが夕飯一緒にしてたなとぼやきつつ、マサヒロはコルクに刺さったままのソムリエナイフを丁寧に抜いた。今夜も一人で赤ワインか。こんなことなら焼酎のお湯割でよかった。マサヒロは久しぶりの玲子の手料理に舌鼓を打ちながら、赤ワインをグラスに注いだ。 「やっぱり玲子には仕事やめて専業主婦になってもらおう。秋田で一緒に暮らしたいな」 マサヒロは玲子の焼いたステーキをフォークで刺しては抜き、刺しては抜きつつ、プロ野球の消化試合の実況中継を見ていた。どうも独り言が多くなっている。 「ああ。一人で飯食っても、一人でワイン飲んでも、うまくねえよな」 しかし自分の安月給をして都内のこんな贅沢な部屋に住めるはずもない。玲子の収入があってこそ、身の丈以上の生活も出来るのだ。しかも収入も彼女のほうが多い。いまさらこの部屋を引き払って六畳二間の埼玉には住めないだろう。通勤地獄の悪夢も二度と御免だし、秋田で農業継ぐのも勘弁してもらいたい。第一、秋田で米つくろうなんて言ったが最後たちまち離縁だ。結婚の条件として秋田には戻らないことを約束してしまっていた。 玲子の仕事も順調で、ほとんど一緒に食事をしないことを除けば、そんなに不満もなかった。夫婦生活も回数は多くはないが、しっかりやることはやっているし、仕事の話を力説し、将来の夢を語る玲子も嫌いではなかった。 一人で食べる食事は寂しい。 今夜のワインは胡椒をたんと使ったステーキ用にシラー100%のワインを用意していた。冷やし気味の温度は、ワインを力強くさせている。ワインだけで十分堪能できるが、肉との相性はやはり抜群である。黒胡椒にシラーを合わせるのは定番中の定番で、通に言わせればストレートすぎて面白みもないらしいが、定番の組み合わせの何が悪いのか、マサヒロは常々思っていた。奇をてらって自慢してもちっともおいしくないだろう。 久しぶり仕事が早く終わったと、玲子が喜んで作った二人分のステーキ。給料日後ということで、かなり奮発したものらしいが、玲子のお皿の少し小さめの肉が少しずつ冷めていくのが辛い。マサヒロはいつ戻ってくるか分からない玲子の肉にラップをかけ、赤ワインをグラスに注いだ。 「やっぱりローヌは冷やして飲むのもうまいな。ワインが温まる頃には玲子のやつ帰ってこないかな」 ドメーヌ・グラムノンのコート・デュ・ローヌ キュベ・シラー1999 コート・デュ・ローヌは北部と南部で葡萄の主品種が違う。北はシラーである。コートロティ・エルミタージュ・クロドエルミタージュで極上の赤ワインが造られている。黒に近い紫色は力強い。花の香やスパイシーな黒胡椒のアロマはジビエなどの肉料理との抜群の相性で知られる。 かたや南部はグルナーシュが主体となる。色はシラーほど黒くない。白胡椒の香を持つ。その優雅な名で知られるシャトーヌフドパプが代表的だ。このAOCの代表格はシャトー・レイヤスとボーカステル。前者がグルナーシュ100%で銘醸を造り出すのに対し、後者は14種類全てをブレンドしてこれまた銘醸を世に送り出している。 今回のグラムノンは南の畑である。アヴィニョンの周辺だ。葡萄品種はシラー100%。南のシラーにも俄然興味が湧く。グラムノンは有機農法で知られる。無農薬はもちろん、酸化防止剤も一切使わない。フィルターも通さないので、葡萄の本来のうまみをそのままワインにしている。あくまでも天然のままにワインを造っているのだ。手塩にかけた分収穫量は当然少ない。大量生産ではなく、こだわりの逸品である。したがって飲み手の技量も問われる。常温に放置すればたちまちワインを傷めることになる。ろ過しないことは、つまり葡萄の本来のうまみを損なわないため。一歩間違えれば、大変なことになってしまう。それでもなお、ノンフィルターにこだわるのは、味へのこだわりである。大量生産体制ならば農薬も添加剤もフル稼働すればよい。そこそこのワインは出来上がるし、この地の知名度を考えれば、商売としてのうまみもある。しかし味はどうか。ワインに限らず、こだわりの逸品の凄さを知るものには容易に想像できるだろう。 ところでこのワインのエチケットにはミッシェルとフィリップの名がある。残念ながらフィリップはこの年に他界している。フィリップがこのドメーヌを天下に知らしめ、この地方有数のドメーヌまで築き上げたものがミッシェル女史に引き継がれた。2000年以降に注目である。卓越した醸造家の伝承は可能か否か。ちなみに1999年が初ビンテージのグルナッシュ主体の村名記入のワインにはフィリップ名の記載はない。 マサヒロのボトルも半分ほど空いたところで、玄関のチャイムが鳴った。玲子が戻ってきたのだ。意外に早い帰宅であった。 「ごめん。お客の勘違いだったの。もう。ちゃんと見ろよな。すっかり振り回されちゃったわ。ああ。肉も冷めちゃって。ラップかけてくれたのね。ありがとう」 「なあ。風呂はどうする。メシ先にするか」 「そうね。ちょっとシャワー浴びてくるねって、それ普通奥さんのセリフじゃない」 玲子の緊張も解けたようで、笑みもこぼれた。久しぶりに見る玲子の笑顔だった。上着をそっとソファーにかけて出て行く玲子。しばらくすると、シャワーの音が聞こえてきた。その間に肉を温め、ワインを少し冷やすことにしよう。 「いただきます。おいしいねこの肉」 「ああ。でも焼きたてのほうが断然うまいぞ」 「そうかもね。でもマサくんと一緒に食べられるから、おいしいわ」 玲子は黙々と箸をすすめている。よほど腹も減っているのか。食わねば、あんなにハードな仕事も出来ないのだろう。黒紫のシラーが玲子の頬を徐々に薄紅色に染めていく。 「なあ。こうして二人で食卓囲むの久しぶりだよな。新婚なんだからメシぐらい一緒にくいてえよな」 「そうね。でもしょうがないよ。お互い仕事あるんだし、世の中には一緒に御飯食べられない夫婦なんていっぱいいるわよ」 「別に世の中の夫婦の話じゃなくて、俺たちの話だよ」 「そうね。ねえ。なんか面白い話してよ。今日は松井どうだった。ホームラン打った ? 」 「今夜は打ってないよ。面白い話ね。それよりどうよ。このワイン」 「うん。おいしいね。コルク抜いてしばらく経ってるから駄目かと思ったけど、結構味に絞まりもあるよね。冷やしてるから力強いし。この鉄っぽい香はちょっと苦手かな。でもお肉と一緒に食べるとスパイシーさが引き立つわね。なんか自然の恵みを飲んでるって感じもするかな」 「いいね。さっきまでは焦がしたカラメル香もあったんだぞ。自然の恵みか。今年の秋田こまちの出来はどうかな」 「あ。無理やり秋田の話にもっててる。私は行かないわよ。秋田は嫌いじゃないけど、住むとなると話は別だし、今の仕事辞めないからね」 玲子の指摘にマサヒロは返す言葉がなかった。やはりこんな些細な会話にも、マサヒロが故郷に帰りたがっている心境が出てしまっているようだ。マサヒロの思いは玲子には伝わっているはずだが、現状を考えれば土台無理な話ではある。 「このワインて誰が造ってるの」 「ドメーヌ・グラムノン。コート・デュ・ローヌで指折りの醸造家だよ。天然有機栽培。さっき言わなかったっけ」 「ううん。聞いてないよ。でもおいしいね。御免ね。こんなにおいしいワインがあるのに途中で仕事場に戻っちゃって」 「ああ。でもこうして飲めてるじゃないか。でもこんな時間に肉食っても大丈夫か。ちょっと食後に運動したほうが良いぞ。いくら赤ワイン飲んだからといってフレンチパラドックスに頼ってばかりもいかんだろ」 「運動って何。今日はやんないよ」 「おまえそりゃないよな。最近ちょっと・・・」 玲子が食器を片付けはじめた。いつのまに髪切ったのだろう。気がつかなかったな。こういうのはちゃんと言わないと後が怖いかな。マサヒロの心配をよそに流し場の玲子が話し掛けてきた。 「ねえ。今度ゆっくり食事しよ。多佳子に聞いたんだけど、初台にいいお店あるらしいよ」 「あそこは駄目だよ。何ヶ月も前に予約しないといけないから。おまえ、予定なんか立てられないだろ。それよりいいワインを家であけないか。外で食うよりおまえの手料理のほうがいいしさ」 「うん。でも私行きたいんだもん。私その予約に合わせて仕事がんばるよ」 「そうか。じゃ予約だけして、駄目になったら申し訳ないけどキャンセルするか多佳子に譲ろう。俺もあそこには興味あるんだ。味も話題だけど、ワインの品揃えもいいからな」 「よし決まり。ねえ。でもちょっと飲まない。なんだか酔いたい気分だわ」 「どうした。なんかいいことあったのか」 「ううん。別にないけど。マサくんともう少し飲みたいだけ」 ワインセラーをマサヒロがうれしそうに眺めている。ドメーヌ・グラムノンのヴィオニエがあった。やはりここはグラムノンといこう。グラムノンの味を共有できれば、なんかいいことありそうだ。いずれ秋田の話もしてみよう。グラムノンがおいしく飲めれば、きっと米のこだわりも分かってくれるだろう。 「なにぶつぶつ言ってるの」 「いや。なんでもない。このヴィオニエにしよう」 「そのワインってどんな感じ。インターネットで調べてみるね。あった。ちょっとここクリックしてから飲もうよ。なんかおいしそうね」 http://www2.odn.ne.jp/~cdj80950/wine/wine13.html 以上 Copyright (C) 2000 Yuji Nishikata All Rights Reserved.
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