名器 (2002/02/07)

 
 久しく名器と呼ばれる逸品を拝ませていないことに気がついて、これでは男が下がると一念発起。都内某所に勇気を出して行ってみた。あいにくの雨模様で某所は人影もまばら。普段なら人ごみにまみれて、瞬間的に中に入れるものだが、これでは部が悪い。通りに誰もいなくなった瞬間を見計らって、そそっ入るタイミングを探そう。おっとチャンスだ。緊張はほんの一瞬で、まもなく安堵の心に包まれた。ふ。入り口で男性に誘導され、料金前払いの指示を受けた。昼間のこの時間だからこの価格でいいのだろうか。大台に乗らない価格設定に、お店の良心を感じたりした。お金をぽんと払ってお釣りをもらう。あとは中に入るだけ。写真などあればいいのに、ここにはない。少し残念だ。

 意外に明るい店内は、時折女性たちの歓喜な声が聞こえるほかは、静かだった。どれにしようか。体力的にもそうそう試せないので、これぞいう名器に全力を注ぎたい。それでも数回転ほどはできそうなので、まずは相手の出方を待つのも一興だ。一つ目の名器は、あれよという間に目の前に現れた。開き気味の開口部と薄い吸い口。色使いはやや鄙びた感じがあり、見つめるほどに奥深い色調は、一発目として申し分ない。この器で楽しめば、気持ちよさは格別だろう。そばにあれば、いつでもできるのに、ここまでこないといけないのには、ふがいなさも感じてしまう。次に2個目の名器に移る。こちらは肉付きの良さが目をひく。閉じ気味の吸い口は、手でこねたような不統一感があり、この厚ぼったさも好みだったりする。濃い目を舐めるように飲みたくなる。暗闇の個室があれば数人で楽しみたい。包み込むように持ったり、ひっくり返したりしていろいろな角度を楽しみたくなる。女性の声が歓喜に満ち、いよいよだ。時間に追われるように3つめの名器を直視。幾重にも塗られた層が、歴史を感じつつ悲哀すら感じさせ、説教のひとつもたれたくなる。なぜこんなところにあるのだろう。中国系の趣はあきらかにジャパニーズとは違う。ヨーロッパの人たちから見れば、日本も韓国も中国もいっしょに見えるだろうか、この僅かな差は、日本人には明らかな差として映っている。この差は大事だが、気持ちよければどちらでもよいという意見にも大いに賛成だ。

 あっというまに名器を楽しんでしまった。時間にして40分。やはり名器と呼ばれる逸品は体力が要る。じっくり触れられないのが残念で、鏡のひとつもあれば裏側の見にくい場所も楽しめたのにと思ったりする。しかし名器はいい。ひとつとして同じ形もなければ、同じ色もない。造詣が深いものや淡白なものまで、さまざま。名器は使ってなんぼだけれど、ここまでの名器は使い勝手も悪そうだ。名器たる所以だろう。さて、銀座にお茶でも行こうかな。

 出光美術館 開館35周年記念 館蔵品による茶器と掛物展は2002年2月17日まで開催している。入館料は一般800円。「染付草花文茶碗 銘 橘」(中国・明時代末期)や国宝手鑑「見努世友」など見所多し。年配女性たちに解説をする学芸員の声に、そば耳立てるのも、ひとつの鑑賞方法だ。学生時代茶道部だった頃の思い出と共に、昔を懐かしんだりした一日だった。文化的な日もたまには良いものだ。

おしまい


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