押しボタン式信号機 (2003/03/04)

 
 その日は、駅を出るなり大粒の雨が横殴りに降っており、傘はさせども何の役にも立たない、そんな夜だった。家路を急ぐ人たちに紛れて、私はとある交差点に差し掛かっていた。この土砂降りにもかかわらず、運悪く信号が手前で赤に変わってしまった。「なんだ。ついてないな」とボヤキつつ、この交差点には雨がよけられそうな軒先などはなく、しかたなく降りしきる雨と、行き交う車の飛沫を気にしながら、その場でじっとしていると、電柱に「押しボタン」があることに気がついた。人通りが多いのに押しボタン式の信号機かと、一瞬不思議な感覚を覚えたが、このボタンを押さない限り信号は青に変わらないのかと思うと、すぐさまそのボタンを押してみた。

 それは一風変わった形をしていて、全体の色調も青だった。表示が「ここを押してください」から、「しばらくお待ちください」に変わってすぐ、私はこのボタンが体の不自由な人のための信号用のボタンであるに気がついた。その旨を伝える表示があったからだ。このボタンを押せば、信号の規則性に関係なく、信号がすぐに変わる仕組みのようだった。しかし、私は理想よりもかなり大きくなりつつはあるものの、五体満足の身体をしており、このボタンを無闇に押してはいけない範疇に入りそうなことは、瞬時に理解可能だった。土砂降りの中をキョロキョロ見回しても、私の周りには障害者の方などいるはずもなく、なんだか自分の都合だけで信号を変えさせようとする嫌な奴に思われ、急に恥ずかしい気持ちになった。

 夜、しかも雨のせいで道行く人たちの表情は分からない。おそらくこちらの顔も分からないはずだ。今しかない。私は走った。信号はまだ赤のままだったが、車が来ないことを確認して、そのまま突っ走ってしまった。なぜ土砂降りの中を走るのか。この瞬間から私を見た人にはまったく意味不明の行動にみてとれなくもないが、とりあえず赤面した顔を隠しつつ、その場から走り去ったのだった。

 ある程度まで走って、元いた場所を振り返ると、信号は青になっていた。ふと思った。なんでだろう。ただ間違えて押しただけで特に他意はないのに、何で走ったんだろうと。改めて思った。私は結構小心者なのだと。なるほど。小心者なら、走るのも無理はない。そういうことにしよう。

 しかし、例の押しボタンの表示方法はもう少し何とかならんものだろうか。押してしまったときの緊張感は、ちょっと耐え難かったりする。この押しボタンが本来の目的を的確に遂行できるような対策が望まれる。と、あたかも人のせいにするところが寂しい。

 この信号機の前で、誤ってこのボタンを押しそうになった女性を見かけたら、そっとその手をとって、「これのボタンは押すべきではありませんよ。ちゃんと順番を待って信号が青に変わるまで、一緒に待ちましょうよ」と話しかけよう。そうすれば、素敵な出会いが待っているかもしれない。こんな恋の始まりもあっていい。しかしきっと、概ね大多数は、危ない人と勘違いされて、通報されてしまうだろう。

 だめだ。オチが作れない・・・。


おしまい

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