大御所の太鼓判 (2003/09/27)

 
 【鮨屋へ行ったときはシャリだなんて言わないで普通に「ゴハン」と言えばいいんですよ。】 【てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べなきゃ】 【たまにはうんといい肉でぜいたくなことをやってみないと、本当のすきやきのおいしさとか、肉のうま味というのが味わえない。】

 上記の文章は、私の「食」への姿勢を見事に言い当てているが、もちろん私の言葉ではない。これらは「鬼平犯科帳」などの著書で知られる池波正太郎の「男の作法」新潮文庫の目次のタイトルである。氏は「はじめに」でこの本について「私の時代の常識であり、現代の男たちにはおそらく実行不可能でありましょう」(原文まま)としていて、日付は昭和56年3月とある。私は氏が想定していた現代の男たちの範疇には入らず、もっと現代な男の部類に入ると思われるが、なんと、なんと、私の「食」へのこだわりが、20余年の時を超えて、大先生と同じであるとは、何とも心強いお墨付きをもらったようで、これほどうれしいことはないではないか。

 内容についてはここでは多くは触れないが、この本を読み進めると、私が最近感じていた、「食」に対する集中力に説得力が増してくるからうれしくなる。例えば、てんぷらはカウンターで客のペースや油加減をみて職人さんが最もおいしいタイミングで揚げてくれる。てんぷらは揚がった瞬間が一番おいしく、この瞬間を味あわずして、カウンターでてんぷらを食べる意味なんて無いと思う。言うなれば、職人とお客のあうんの呼吸。食材のうまみを職人が最高潮に引き出した後、お客がなすべきは、その味わいをおもむろに堪能することだけだ。この呼吸にも似た絶妙のタイミングをもとめて、そしてそれを共有して、「食」の驚きと喜びが充実する。積もる話は居酒屋でも喫茶店でも、ファミレスでも場所は選ばない。しかし、職人の仕事の前では、それはない。日頃、大森さん(仮名)らと食事をするときは、集中力が同じなので、(というより、てんぷらが揚がる瞬間を待ちわびている・・・かも)、特に意識したことはなかったが、そのあうんの呼吸が整わないと、なんとも居心地も悪く、せっかくのおいしい料理の感動も半減してしまう。「食」は食べて何ぼ、分かち合って何ぼと思うゆえ、職人の仕事に最大限の敬意を払いつつ、目の前の逸品に集中したいのだった。そして氏はそれをずばりと言い放ってくれていて、何ともすがすがしく、心強いのだった。

 たしかに「食」にこだわっていなければ、味わいの差や、食べ時、食べ頃を感じないものかもしれない。おなかがいっぱいになれば満足という人もいるだろう。しかしそれでは、せっかくの職人さんとのコミニュケーションもそこで分断されてしまうし、魂の逸品が、その本領を発揮せずにそこに留まり続けることに、そこはかとなく苛立ちを覚えたりする。もちろん、これは「食」に対する集中力の違いなのだと自分では納得している。人それぞれに思い入れや好奇心は違うのだから・・・。「お客が、それをどうやって食べようとお客の勝手だろ」という言い分は、実は筋が通っていないと氏も指摘する。全くと同感である。このことに、共有できると、「食」は俄然面白くなり、感動を共有できるからうれしい。

 まあ、それはそれでおいといて、この本を読むと、氏に大共感しつつも、自分の未熟さも知るところとなり、ますます食文化、食空間に興味がわいてくるから不思議だ。そして知らず知らずのうちに氏と同じ思いを感じるようになったのは、名人と呼ばれる職人さんたちやそこに集う常連さんたち、あるいは部活の部員たちから、言葉にしなくともその態度や背筋、笑顔で教えていただいたおかげであり、そしてもちろん両親に感謝なのである。

 さあ、この秋はどんな感動に出会えるだろうか。楽しみは尽きないぞ。

おしまい


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