ラーメン怖い ファイナルチャレンジ (2005/10/22) |
私は、ラーメン自体は嫌いではないが、食後に共通する残存感に、ラーメンという食べ物の存在意義を疑うものである。なぜにラーメンの食後には、口の中をまったりと支配するあの残存感があるのだろうか。化学調味料を使用しているところは、当然ながら、未使用を謳うところでも、やはり残存感があるのが辛い。先日も、大和市内の某有名店で塩ラーメンを注文し、さすが有名店だけあって、ラーメンの素材一つ一つに魂が込められているオーラを感じつつ、スープも全て飲み干すことができたのだが、店を出てからのいつもの残存感と、950円もしたのにラーメンだけだとかなりの空腹感をもつところが不可解だったりした。空腹感は置いといて、この残存感の原因は、スープを注ぐ前に、器に少しばかりたらすあの隠し味的な脂のせいかなとも思いつつ、残存感イコール食中のハイパー・インパクトの延長線と捉えるならば、外食の一食入魂系の強い味わいに、日本人の味覚が、より強い嗜好に向かっていることに気づくとき、なるほど全て合点がいくから不思議である。
大和のラーメン屋さんの評判は私の耳にも届いており、それは、私の中でラーメンの最後の牙城だった。ここの砦が崩されるものなら、私はラーメンとは無縁の生活を余儀なくされることを覚悟していた。だから今までいかなかったのだが、たまたま大和市内を通り抜けつつ、お昼時ということもあり、ふらりと寄ってみたのだった。平日のお昼すぎ、店の外には何人かのお客さんが待っていて、さすが人気店と思いつつ、隣のスーパーで所用をすませると、運良く、待ち人は2人だけになっていた。そこで三人目のお客として並ぶ。まもなくして店内から、こざっぱりした感じのいいおにいちゃんが現われ、私を店内のカウンター席に誘導してくれた。カウンターの角席に陣取りつつ、店内を見渡すと、ラーメン屋さんではあまり感じることがない清潔さを感じ、さすがは「美しいものは美しいものからしか生まれない」の名言を残すあの料理人とお友達なのだと思うのだった。 客席も厨房も綺麗だった。特に厨房内は、調理器具は皆ぴかぴかに磨き上げられ、俗に巷で囁かれる「あそこは店のなりは汚いけんども、味はうまいんだよね」という迷信をとうの昔に否定している者にとって、この美しさには職人の魂に触れる思いがした。美しくなければ、おいしくない。これは本当においしいものが、全て美しい環境からつくられていることを知ってしまった人々との共通の認識と思うが、ようはこのラーメン店の美しさは、そのラーメンを食べる前から、そのおいしさを想像できたのだった。ラーメン特有のあの湯きりの姿も美しく、それはその姿がシルエットとなって、名刺やホームページの表紙になっているところからも相当の自信を感じることができた。 注文は、特○○○(塩味)(○には店名が入る) = 950円。 はっきり言って、このラーメンはおいしいと思う。細麺は好みの太さと堅さでスープとの絡み具合も程よい。卵の半熟さも絶妙で、炭火で焼いた甘めのチャーシューもコクがあり味わい深い。器に添えられた5枚の海苔にもこだわりが感じられ、麺と連動するような細めのメンマも美味であった。素材と調理のこだわりが、美しい器から発せられ、スープの塩味もいい加減で、とてもおいしく、ひさしぶりにラーメンを完食することができた。 私の牙城は、守られたと思った。 コップの水も飲み干して、私のラーメン道が新たな局面に到達したことを予感させたのだった。まだまだラーメン食べられそう・・・。しかし、そいつはゃっぱりやってきた・・・。店を出る頃から容赦なく襲ってくるいつもの残存感に、痛恨の一撃を受けたのだ。ああああ、駄目だ。ここにもラーメンの残存感がある。ラーメンがうまかっただけに、この残存感が余計に口に染みてくる。ざんねーん。おまけにラーメン一杯では、空腹は収まるどころか、空腹感が刺激されたようで、すぐさま最寄のコンビニに立ち寄っては、おにぎりを頬張るのだった。ラーメンは無理だけど、コンビニのおにぎりは何で食べられるのだろうと、不思議に思いつつも、結局は30分以上にわたって、食後の残存感にさいなまれるのだった。 思えば、このラーメンはハイ・インパクトな味わいで、選び抜かれた食材と、手の込んだ仕事と、濃い目の味付けが、初めて訪れた人にもダイレクトに、そして強烈に伝わるのだと思われた。これは、ラーメンとして、完成された姿かもしれないと思った。このインパクトの強さが、お客をひきつけ、彼らの感激が口コミで伝わり、あきさせない豊富なメニュもあいまって、彼らを常連化させるのだろう。そしてあの残存感が、それを好む人々にとっては、食べ手の余韻に重なり、食べたことへの充実感を助長するのかもしれないと思った。だからラーメンにはあの残存感が必要なのだ。インパクトの象徴として、食後に続く残存感。この残存感こそ、ラーメンを食べたことへの証なのだろう。そしてそれは、あの有名店のラーメンを食べたことがあるという、ある種の充実感に重なるのかもしれない。一人で食べてもおいしいし、有名店ならデートにも使える勝手のよさとおしゃれ感覚。それは、味覚を脇に置けば、わからないでもない。 日本人の多くが、濃くって強い料理をうまいと感じるならば、ラーメンはその象徴的な存在として、確固たる地位を築いたのだと確信できる。しかし、濃くって強い料理を、それほど好まないものにとっては、このインパクトは物見遊山的には好感が持てても、日常生活に溶け込むことはなさそうだと思ったりした。 炊き立ての白いご飯のおいしさを楽しみ、「あれ、ご飯代えた?」みたいな会話に喜びを見つけるものにとって、インパクトの強い料理は、逆になんだか味気ないと思ったりするから不思議である。 ラーメンに、あの残存感が必須要件であるとするならば、その残存感に恐れをいだくものにとってラーメンは、縁のない食べ物のように思えてならない。だれか。残存感のないラーメンを作ってくれないかなあ・・・。そういうラーメンが、もし存在するならば、ラーメンという名前ではなくてかまわないので、是非とも食べてみたいと思うのだった。そしてそんなラーメンが登場するまで、私とラーメンとの間には、広くて深い川が流れ続けるのだろう・・・。ざんねーん。 おしまい Copyright (C) 2005 Yuji Nishikata All Rights Reserved.
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