隆太窯の美しさ (2006/07/10)

 
 都会の喧騒とは全くといっていいほど無縁な唐津の奥。そこには、段々畑の緑が美しい斜面が広がっていた。福岡空港で借りたレンタカーを止め、木洩れ日の坂道を下っていくと、唐津焼の隆太釜(りゅうたがま)の工房が見えてくる。折りしも台風3号の北上に伴って梅雨前線が刺激され、それに伴ってフェーン現象が観測されたようで、梅雨時にしても、やけに蒸し暑い唐津の奥。流れの速い小川の音に、気の早い蝉時雨が重なって、どことなく昔見た風景のような、そんな記憶もやわらかく、隆太窯にて当主中里隆氏の「仕事」を拝見させていただいた。
 
 唐津焼 隆太窯。

 器の、その本当の美しさは、手に取ってこそ、わかるもの、なのかもしれない。普段、美術館や展覧会などで、唐津焼の名品を拝見したことは度々あったが、何ゆえに美しく、何ゆえにあんなに価格が高いのか、ガイドブックの解説のままに理解はしても、心の芯の部分では、いまひとつ理解に苦しんでいた。そもそも器は高価であり、割れやすい。おいそれと触って、万が一にも割ってしまおうものなら、金銭的にも文化的にも強烈に大変なことになりそうで、触ること自体勇気が出ないのだ。それに第一、一般ピーポーは名器と呼ばれる器は、お茶会などの公の場以外では、美術館で見ることは出来てもおいそれと触ることは出来ないもの。それゆえに、日本の文化の一つである陶芸の魅力を、今日までわからずじまいだったのも致し方ないものと思われた。しかし、隆太窯では、工房の見学が自由で、その「匠」を間近に拝見することが出来き、かつ、工房の横には直売所があり、そこでビアグラスを、買うことを大前提にして、手に取ることができるのだ。

 隆太窯にて、二つのビアグラスを比べてみる。方や中里隆作、方や息子さんの太亀作。

 まずは息子さんの作を手に取ってみた。うーん。いい感じだ。その日の昼食は、唐津の街中にある鮨「つく田」にて、最高の鮨を食していたが、そこで味わったビールやお酒の器や箸置きは、隆太窯であるという事実を再確認して、その土の質感に心を休めていた。本当に気持ちがよく、日本人に生まれた喜びを噛み締める。土のやわらかさと固さを同時に感じる楽しさ、うれしさ。これはどうやら唐津の魅力に嵌っていくしかなさそうだ。

 そして父の作を手に。「う。違う。」気持ち小ぶりな父の作は、手に取った瞬間に、エキゾチックな感触が全身を駆け巡ってくるのだ。この小さな器から、巨大な感動が発せられている。そしてその感動は、ロマネ・コンティを楽しんだ時に感じたそれと同じ類のものであると気付くのには時間は必要ない。波打つように鳥肌が現れ、そして人の心を鷲掴みにされた瞬間に、私は「落ち」たのだった。器を持って、初めて走る、感動がある。

 うつくしい。隆太窯は、本当に美しい。

 その美しさを言葉で伝えるには限界があるだろう。作品を手に取り、そしてそれを日常の場で使うことによって、その日一日を戦場で生き抜いた喜びを実感したい。当代一流の職人の手によって作られた器は、うつくしく、そして機能的。ロブマイヤーでもってワインの魅力を引き出す日常に加えて、隆太窯でもってお茶やビールの魅力を引き出したいと思うのは、これは、もはや自然の流れだろう。残念ながら、今回は諸般の都合によって両親用にしか父・中里隆作の器は買って来れなかったが、いつの日か、この器でもって、日本のワインを楽しむお手伝いをさせていただいたら、なんとなく生きてきた甲斐もありそうだと思いつつ、器を持ったあの瞬間の感動を、再び呼び起こしたいと思うのだ。

 購入後、再び工房へ。なんと隆氏本人が轆轤を回していた。氏の仕事をしばらく拝見。おそらく時間に制限がなければ、永遠に見続けても飽きることがないであろう、その仕事。美しいものは、美しい仕事から生まれていた。独特の光沢を持つ硬そうな土が、職人の手のひらの中で、あっという間に器になっていく様は、呼吸をすることも忘れさせ、ただただ、自らの心臓の音と、蝉の音と、小川のせせらぎの三つの音だけが工房に響きつつ、時の流れを忘れさす。

 ふとした瞬間に、弟子入りを申し出そうな気持ちをようやく抑え、私は唐津の段々畑の中にある窯の空気を吸い込んだ。土と水の匂いが混ざった、なんともいえない不思議な空気に、陶芸の魅力の、その入口を、ふと探し当てた気がした。これから始まる土の芸術。隆太窯に出会えた喜びが、私を包み込む。その快楽に、もう少し身を預けておきたくなって、私は工房の土を見つめ続けたのだった。

 できることなら、隆太窯のうつくしさを共感したい。そんなことを思いつつ、まずは取り急ぎ第一報として・・・。


おしまい
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