お箸の持ち方 義務教育にて (2006/09/19)

 
 自民党の総裁選挙で、外務大臣の麻生候補が、お箸の持ち方を義務教育で教えたほうがよいのでは、と嘆いていたことが、とても気にかかってしょうがない。というのも、氏の憂いには激しく共感しつつも、そもそも学校の先生方がお箸の持ち方を指導できるのか、ちょっと心配だからだ。先日も、牛丼復活のニュースの中で、カウンターに座って黙々と牛丼を頬張る人たちの映像があったが、そこに映る人の多くは、箸の持ち方が、やっぱり変だった。

 牛丼とは、そもそも箸を汚くもっても食べられるご飯なので、そのことについてとやかく言うつもりはないのだけれど、牛丼と他の食べ物において、箸の持ち方を器用に変えるとも思われず、ましてや自分よりも年配と思しき人たちが、箸をきちんと持てない光景は、見ていてとても悲しく、日本の食が乱れている象徴のような気がしてならなかったりする。

 確実に、箸がもてない日本人が増えている。

 日本の食の象徴的な存在のお箸。そのお箸がぞんざいに扱われていることに、とても憂いを覚える。彼らがお箸をきちんと持てないのは、食に敬意を払っていないことの現われかと推測するが、いかがなものだろうか。最近、つとに食に敬意を払わない人が多いと思うのは、気のせいだろうか。

 おいしいご飯は、美しい器に盛られなければならず、そしてそれは、美しく食べられてこそ、おいしいのだと思うものにとって、お箸はお客サイドにとって、とても大切なもの。私はお箸にこだわりたいと思う。

 ところで最近、某和食のご主人と、器や箸についてお話しする機会があり、物に対する慈しみが、お料理をいっそうおいしくさせると教えられた。ただ腹を満たすのではない、食を通じての真心を、真摯に感じるためには、日本人なら、箸はきちんと持てなくてはならないと思う。それが人と動物を分ける境目のような気もしつつ、おいしいご飯は、それを共有してこそ、その花を開かせる不思議な世界ゆえに、それを共有するためも、お箸はきちんと持ちたいと思うのだ。

 全員がきれいに箸を持つ食卓は、とても清清しく、機能的にも無駄がなく、そして美しい。


おしまい
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