300歩までは譲れた (2006/12/15)

 
 ひとは、どこまでその場にいられるのだろう。私は、昨夜、新橋から終電に乗って帰宅するとき、隣のつり革につかまっている男性の挙動に、衝撃を受けてしまった。

 品川から乗り込んだ男性は、その身なりから判断するに、相応の会社で相応のポストについて、何人かの家族を養っているのだろうと思われた。男性は、乗り込むなり、鼻をずるずるし始めて、どうやら鼻水の塊が鼻の奥に引っ込んでしまったらしく、むず痒そうにしていた。ポケットからティッシュを取り出して、鼻をかむものの、うまく取り除けなかったようで、今度はおもむろに、右手の指(推定中指)を鼻のかなり奥まで突っ込んで、爪の先に異物を引っ掛けようと躍起になっていた。うーん。満員電車の中で、かなり大胆な行動だが、その男性は少しお酒を嗜まれているようで、なんだか気だるそうに体勢をゆすりながら、指を突っ込み続けていた。私も鼻をほじったことはないとはいえないので、(ここまで大胆にしたことはもちろんないが)、ここは100歩譲って、異物が取れますようにとお祈りしてあげたのだった。

 しかし、異物は取れないようで、今度は違う指(推定人差し指)をぺろりと口に含み、湿らせた指を奥のほうへと突っ込みだした。鼻の穴が乾燥しているならば、細胞保護のために潤いを与えることもあるだろう。私はもう100歩譲って彼の行動を見ないようにしながらも、ついつい視線に入ってくるのだった。

 で、ここからすごい世界が展開されていく。

 鼻の穴をほじっていた二本の指をぺろぺろ舐め始めたのだ。さも鼻の穴の内面に染み込んだお出しの味を楽しむかのごとく、ぺろりぺろりと舐め始め、ある程度湿ったところで、今度は角度を変えて指を挿入していった。これを何度も繰り返す。ううう。気持ちが悪くなってきた。そしてなぜだか男性は、左手の指でも異物の取り除き作業を開始し、両手の指が交互に男性の鼻と口を往復し、その指は粘着性のある液体にまとわれているのだった・・・。気持ちが悪くなってきた・・・。

 車内は牛ぎゅう詰めとまでは行かないものの、かなりの混雑で、私はその場を離れることはできなかった。しかも品川-川崎間は多摩川を越えるために、時間にして10分間もあり、この10分が、こんなに長く感じるものかと思うのだった。しかし、よくよく考えてみれば、公衆の面前で鼻をほじろうとも、鼻をほじった指をぺろぺろ嘗め回そうとも、おそらくは掴み出した固形物を食べてしまおうとも、私に実害が及ぶわけでもないので、気色悪い点を除けば、まあ譲れない線でもなかった。それも男性自身の人生だ。私はできるだけ視線をそらし、両手の指の行く先など決して見ずに、過ごそうとした。ここまでで、相当無理やりではあるが、都合300歩譲れたことになるだろう。

 ところが、この社会的な地位を持つであろう男性は、舐め終えた手のやり場として、私の隣のつり革をがっちり握ってきたのだ。ギョエ、である。私はもう譲れないだろう。私は彼の右隣に並んでいたのだが、左隣にはうら若き女性が、本を読みながら彼の隣のつり革につかまっている。満員電車といえども、電車が揺れるごとに立ち位置は微妙にずれることがあり、それは捉まるつり革も交代される可能性があることを示唆していた。彼女が手を放した隙に、そのつり革を、男性が握る可能性もあり、そして、もうひと揺れして、彼女がつり革につかまってしまったら・・・。ここはひとつ彼女にお知らせしなければならないのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、男性の右手の指は、つり革を離れ、網棚に並行する棒をつかみ出した。握りをかえるごとに、いつもより多めに湿ったステンレスが、私の視線に入ってくる。そしてその5cm先の網棚には、私のかばんが置かれている。電車が傾いたときに、車内が揺れて、男性が私のかばんに触れないかヤキモキしながら、私はひたすら電車が品川駅に到着することを願わずにはいられなかった。私はもうこれ以上譲ることはできなかった。この男性、私のかばんに指一本でも触れようものなら(その指一本は絶対譲れないのだが・・・)、どうしてくれようと悩みつつ、ただひたすらに私のかばんや私の体に触れないことを祈るしかなかった。この時間ほど長いと思ったことは、わが人生でもないはずだ。

 で、ようやく電車がその速度を落とす、彼女も読みかけの本をかばんに入れて、つり革から手を離した。電車は大げさに揺れることなく、そのまま停車して、ドアが開いた。彼女はこの駅で降りるらしい。彼女の被害は避けられた。ほっとするのもつかの間、しかし、男性はこの駅では降りないようだった。私はついに一目散にその場を逃げ出して、ひとつとなりの車両に乗り込まざるをえなかった。まさに、ふうである。

 川崎駅からの、その後の男性の行動は私は知らない。

 しかし、電車のつり革は、いつ誰が、鼻をほじった指をぺろりと舐めまわした後で、握るかも知れず、そう思うと潔癖症ではない私までもが、もうつり革につかまることができなくなってしまったことに、一抹の寂しさと気色の悪さを感じるのだった。

 電車のつり革、もう私は握れません。・・・。どうしたらよいのでしょうか。


おしまい

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