夢中であること (2007/01/05)

 
 昨年末、フードジャーナリスト会議というものに初めて参加して、近著「エッシャーに魅せられた男たち 一枚の絵が人生を変えた」でおなじみの野地秩嘉さんの話を聞いてきた。氏はその席で、感動するとはどういうことかを、コンパクトな言葉で解説した。

 感動する = 夢中であること

 氏の「ひとは評論や分析では感動しない。夢中であることに、感動する」との一言は、私の日ごろの思いをあまりにも端的に、そして正確に捉えていて、実に心地よかった。そう、すべてはその一言に集約されるのだ。夢中であること、に。たとえば、正月恒例の箱根駅伝。コースの沿道に住むものにとって、また大学の後輩たちが走る立場において、箱根駅伝になぜに感動させられるのかは、とても身近なテーマだ。誤解を恐れずに、しかし正直な言葉でそれを解こうとするなら、東京からあの箱根の山を走りつなぐなんて、なんて馬鹿なことだろうと思う。普通では考えられない暴挙といえなくもない。しかし、そんな馬鹿げたこと(に見えることを)、夢中で成し遂げようとする姿に、私はやはり感動してしまう。彼らは夢中なのだ。

 たとえばお料理。美しく食卓を彩るお料理は、猟師や農家や料理人が夢中で仕事をした結果が現れている。その思いを伝えようとサービスのスタッフは気を配る。美しいサービスは、お料理をただ運ぶだけではなく、お皿にこめられた料理人のメッセージを穏やかに、夢中で伝えようとするところから、感動が生まれてくる。しかしそれを受ける側が、たとえばタバコの煙をふかしては、談笑し、そのお料理の風味にも温度にも無関心であるならば、お店の夢中さは、ちっとも伝わることがない。食べ手に夢中がないからだ。

 野地氏は、その講演でこんなことも言った。「高い意識から見たものを、人は伝えたくなる」と。それは感動が落ちてくる感覚に近いという。氏はその点を切り口に、その場ではジャーナリズムとは何かを解いていくのだが、私の思考は、「私は、何に夢中なのだろう。そして何を伝えたいのだろう。」ということに移行していってしまった。

 たとえば、昨年マイブームと化した唐津焼で楽しむ甲州ワイン。家庭のどこにでもある湯飲み茶碗で飲むのではなく、この国の芸術とは何かを問いかけてもくれる隆太窯は中里隆さんの作に、志高く醸された甲州ワインを注げば、グラスで飲む、あるいは湯飲み茶碗で飲む、とは違った「夢中」を意識させてくれる。経験的に、隆太窯で、ワインのテイスティングをすることは不可能に近い。これはワインを陶器に注ぐことによって色と香りの識別が困難になるという理由ではなく、もちろんそれもあるのだが、要は思わず「ごくり」と飲み込んでしまうのだ。唇にそう隆太窯のエッジに、甲州ワインはするりと馴染み、どこからともなく笑みがこぼれては、うまいと舌鼓。これではテイスティングになりようもない。しかし、そこが食卓ならば話は別だ。そんな食卓を囲みたいと常に思う。日本にワインは日本の土で包みたい。ロブマイヤーもしかりだ。その成分に鉛を含まないことにこだわるロブマイヤーのグラスは、高価で、扱いも慎重にならざるを得ないが、軽くて、薄くて、そして繊細なタッチによって、ワインの本質を高い次元で表現しようとしてくれる。その繊細さが、ピノ・ノワールの繊細さにマッチするとき、グラス職人とヴィニュロンの仕事がひとつに結ばれたように思えてくる。そこには、間違いなく、夢中がある。

 夢中であること。いい響きだ。今年もこのテーマに、猪突猛進していきたいと思う。


おしまい

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