泣きながら読んだ本 (2007/03/06)

 
 私は、この本を読みながら、なぜか強烈な悲しみに襲われ、不本意ながらも、泣いてしまった。

 「亡食の時代」 産経新聞「食」取材班 扶桑社新書

 この本の帯には、「きょう、朝ご飯にガムをたべてきたよ」というフレーズが本のタイトルよりも大きく掲げられ、日本のおかしくなった食卓の現場の声をリアルに再現している。まさに私が最も関心を寄せるテーマだけに、速攻で買い、そして時差ぼけ全開ながら、あっという間に読み終えてしまった。そして、私は気づいてしまった。文中、私は、どうやら泣きながらこの本を読んでいたことを・・・。

 本文では、箸を正しく持てない人たちや、コンビニで捨てられる食について分析しているが、私が泣いたのは、そこではない。そんなことは日々、ニチジョウチャメシゴトのごとく繰り返されているのだから、それを諦めることはあっても、いまさら泣くことはない。私が泣いたのは、老人の孤食の項を読み進めているときだった。老人がたったひとりで寂しく食べる食事。戦争を経験した彼らには、「もったいない」の精神が宿り続け、食べきれなくとも、何日も何日もかけては、それがたとえ腐りかけていようとも、ただひたすらに火をかけ、同じものを食べ続けているようなのだ。寂しい孤食の現場を目の当たりにしたとき、私の目は涙で潤んだ。

 たったひとりで食べる、それもずーっと一人で食べ続ける老人の姿が目に浮かび、寂しい孤食に直面する風景が、リアルに、それも将来の自分に重なる可能性を否定できないくらいリアルに、私を襲ってくるのだから、いてもたってもいられなくなる。

 その項よりもずいぶん分と前、「食事のマナー(を習得する)とは、食材や調理をしてくれた人を気遣い、周囲と調和する心を学ぶことです」と、この本は19ページで紹介している。その言葉はマナーを端的に表し、納得するに十分な文章であるにもかかわらず、そんなマナーが孤食の現場にうまくはリンクしてこず、なにやら途方もない寂しさを禁じえないのだ。それはこの本の強烈な伏線に思えてきたりもした。周囲と調和する必要も可能性もない、孤食という現実。他人事ならいざ知らず、自分のことに置き換えようとするならば、私はいくつもその必要条件を満たしていることに気づき、今まで感じたことがないかのような軋みを体験するのだった。キシキシキシ・・・。

 シャンパーニュで、ドソ物を食べて、うまいだあ、まずいだあ、と嘆くよりも、はるかに厳しい現実を体感した。いずれ、近いうちにやってくるかもしれない孤食という現実。たとえ、それがどんなにおいしい食べ物だったとしても、そのおいしさを誰とも共有し得ない悲しみは、ドソ物を食べたときよりも強烈に、私を襲ってくるのだろう。そして、私は妄想する。そんな孤食の現場に、ロマネ・コンティのボトルがあったとしたも、そのロマネ・コンティは、ロマネ・コンティであることのアイデンティティをなくしているはずで、その孤食によりいっそう輪をかけては、不愉快なまでに、現場を演出してくるのだろう。

 亡食の時代。

 私はこれからどんな食べ物を、誰と食べていけるのだろうか。そして私が来たるべく、または来ないかもしれない孤食の現場を享受するなら、そのとき、私のテーブルには、どんな食べ物が置かれることになるのだろう。想像するだけで、なんとも言いようのない、寂しさと切なさと、その光景を演じるにいたる後悔を感じいる。

 亡食の時代をどう生きるか。この本は、かなりリアルに、その現実を直視させる。


おしまい

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