野菜がおいしいと人生の大半は幸せである (2008/04/18)
 



 野菜がおいしいと、とても幸せ。

 幸いにして、地元の湘南・西湘地区(俗に言う相模湾沿岸警備隊活動地域)には、野菜の生命力みなぎるパワーを体感できるレストランがあって、極めて幸せである。たとえば、平塚のフレンチレストラン「ブラッスリーHxM」、大磯の大衆フレンチ「ル・ビストロ・ノーブル」、そして昨日初めて訪問した二宮のイタリアン「トラットリア ペッシ・ヴェンドーロ」は、特に地元野菜にこだわり、極めて高いレベルで、食の楽しさを満喫できたりするので、とても幸せなのである。

 野菜のみずみずしさと、生命力の強さ。そして命の尊さ。その野菜に鼻を近づけようものなら、土の香りも感じることができる素朴なパワー。そしてなにより、東京のレストランの価格に慣れてしまうと強烈に違和感を覚える、その安さ。食べながら、いつもすごいと思う。素朴な畑職人の情熱そのままに、有機野菜の生命力を、その価値観を共有する料理人が調理したり、そのまま出したり、ドレッシングにこだわったり、塩にこだわったりと、野菜のそのおいしさを最大限に提供してくれる。(最近は自分で野菜を育てる料理人もいたりして・・・) そしてもちろん提供温度にも最大限のリスペクトが払われる・・・これ、極めて大事(笑) 食への敬意が、お客さんへのホスピタリティとなって表れるのだ。

 東京のレストランで食べる野菜。東京では野菜のパワーを感じるレストランは少ない。もちろん星つきレストランでは、すばらしい野菜に出会え、この点にもミシュランの感性に共感しえたりし、ミシュランはまだ訪問していない赤坂の「my-an」で食べる野菜(私は特に椀物が好き・・・)にも、その鋭気を感じることができて、とても幸せだったりする。

 しかし、その一方で、東京の食事処では、(雑誌で評判の予約が取れないといわれるレストランのいくつかも含まれる)、かなり寂しい思いをすることが多い。湘南で慣れてしまった野菜のパワーをまったく感じることができないサラダなどに出くわしてしまうと、それはそれは悲しい気分になるのだ。一見するとおしゃれな盛り付けなのに、すでに生命力が失われている野菜たち。油断すると、その飾り付けの美しさに、自分の味覚の方がおかしいはずだと決め込んでしまいがちだが、湘南に戻って、素朴な野菜の形とその食感を今一度試そうものなら、自分の判断に間違いはないと、意志を強く持ったりする。東京の各種のコスト高を考えれば、それはやむを得ないと思いつつ、それは湘南のおいしい野菜のパワーを知らなければ、とくに指摘するほどでもなかったはずの不幸なのかもしれない。野菜が食べられるだけ度も幸せ・・・というレベルも感じるし・・・。

 レストランで食べる野菜。そのおいしさに触れてしまうと、ある意味幸せであり、またある意味では不幸せ。お店を選ばないと、そんなおいしさに出会えないからだ。(そして湘南の多くは後者の部類に入るかも・・・ううう・・・) しかし、一度そのおいしさを意識してしまうと、料理 = 命を食す、という命題も肌身で感じ、そのおいしさを体感できる幸せに、ちょっと浸っている自分に気づいたりもする。

 野菜がおいしいと、人生の大半は幸せである。そんな気がする。それは旅先やら、出張やら多忙やらで、野菜をとる時間がなく、ありあわせの食事や野菜ジュースで栄養補給するたびに、この瞬間には満足し得ない野菜への憧れを覚えるからかもしれない。野菜・・・おいしい・・・しあわせ。野菜を育てる農家さんと、それを運ぶ宅配業者、それを調理する料理人、それを運ぶホールスタッフ、そして食べる人。すべての連携がうまくいくと、かなり幸せだ。野菜のおいしさで繋がるネットワークと価値観の共有。やっぱり野菜がおいしいと、人生の大半は幸せなんだと思うこのごろだ。


 おしまい
 
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