12月13日(土曜日) 山下姉妹と再会そしてオペラ「マクベス」の巻

 朝9時45分。僕は山下姉妹と再会した。感激だった。リスボンで会い、今こうしてミラノで 再会したのだ。異国の街の約束が今、果たされたのだ。僕はその喜びをイタリアンスタイルで 表現しようとした。お互いの頬にキスをして抱き合うというあれだった。しかし僕は小心者だった。 手を握る事しかできなかった。劇的な再会は、日本式の挨拶になってしまったのだった。誠に 残念だった。

 ところで山下姉妹は元気だった。何でもパルマに4泊もして今日のミラノでの約束を待っていて くれていたらしい。僕との約束を自分たちの予定よりも優先してくれたのだ。ありがたい話だ。 そんな裏話を聞くと、嬉しくてたまらなくなる。

 僕らは地下鉄に乗ってドーモに向かった。ドーモの見学をしながら、旅の思い出話に花を咲かせた。 その時、僕は油断していた。山下姉妹は美人姉妹だ。彼女らと一緒にドーモを歩いて、油断するなと いうほうが難しい。僕が旅の思い出を語っていると、ジプシーの母子が近寄って来た。僕は変な 同情はしないことにしていた。花を買ってくれだとか、チップをくれだとかいう類いは一切 拒否していた。僕はジプシーに囲まれても毅然とした態度で拒否を貫いていたのだ。今回も拒否を していたが、母親の態度が少し変だった。新聞紙を広げて懇願してくるのだ。僕ははっきりと 断ったが、次の瞬間子供の手が僕の前に差し出された。手には僕の電卓とメモ帳があった。あなたの 電卓を拾ってあげたからチップをくれということらしい。僕は不覚にもポケットの中身を すられていたのだった。僕は美人姉妹との話に夢中で、ズボンの左ポケットに手が侵入していたことに 全く気が付かなかった。僕はジプシーを払い除け、電卓とメモ帳を取り返した。危ない所だった。 あれが財布だったら盗まれたままだったろう。電卓だったから拾ったお礼を要求してきたのだ。

 僕が悪かったのだ。僕の油断が彼らを行動に走らせたのだ。美人に弱い僕の弱点をついた ジプシーに、改めてイタリアの貧富の差を思い知ったものだ。

 僕らは気を取り直してBARで朝食替わりのカプチーノを飲んだ。そしてサンタ・マリア・デレ・ グラツェ教会まで歩いていった。教会の列にならんでいると、変なおじいさんが話し掛けてきた。 先ほど親切に道を教えてくれたジイさんだった。並びながらしばらくイタリア語と日本語の勉強会を した。数字の発音や、日本での暮らしぶりなどだ。このジイさんはこの教会の名物ジイさんらしく、 僕の妹も彼のことは知っていた。ジイさんとのやり取りもようやく終わって、僕は最後の晩餐に 再会した。

 やはり名作は何度観ても飽きることがない。僕は、山下姉妹にこの絵の説明をしながら、震える心を 押さえようとしていた。姉妹もいたく感動している様子で、僕はそんな彼女らと感動を共有できた 喜びに包まれたのだった。1時間近く観ていただろうか。前に出たり、後ろに下がったり、カニ歩きを したりいろいろな角度からこの絵を堪能していると、姉のほうがそろそろ出ようと言ってきた。 空気が重く息苦しいとのことだ。確かに空気が重い。僕らは名残惜しいが教会を出た。それから 僕らはスカラ座を目指した。今夜のオペラの席を確保したかったからだ。教会からスカラ座までは かなりの距離がある。僕らは一緒に歩いた。やはりヨーロッパの街は女性と歩くほうが各段に お洒落だ。石造りの建物と石畳は、女性に良く似合う。

 スカラ座に着いたが、チケットは全て売り切れだった。売り場のモニターで確認すると年内の 公演は全て売り切れのようだ。残念だった。やはりヴェルディのマクベスともなると大人気 なのだろう。ダフ屋も探したが、近くに居ないようで、今回は諦めようと思った。僕は山下姉妹と 昼食を共にして、駅まで送ることになった。スカラ座から駅までは約30分歩いた。途中秋の公園の 中を通って、さながらヨーロッパの休日を楽しんだりもした。

 彼女たちとの別れはあっけないものだった。本当は電車が出発するまで見送って、ホームを 走りながら名前を叫んで、最後に転ぶという予定でいたが、何か恥ずかしくてさらりと握手して 別れてしまった。彼女たちはパルマに戻ってそれからギリシャに向かうという。日本でいつか 会えたら最高だと思った。

 一人になると暇を持て余した。一度は諦めたが、やはりオペラが気になった。僕は再びスカラ座を 目指した。未練があった。このまま日本には帰りたくなかった。ダフ屋と交渉してからでも諦めるのは 遅くないだろう。僕は再びチケット売り場に戻った。今度はダフ屋がいた。チケットもあるという。 残り2枚。僕は値段の交渉に入った。40万リラだという。32000円くらいか。正規料金が 3万リラ(2400円)だからかなりのボリようだ。僕はイタリア語を駆使して値引きをした。 35万リラまでなら、まけるという。28000円か。これでもかなり高かったが、これ以上の 値引きは難しかった。僕は一瞬考えた。スカラ座までの往復交通費を考えると、次回のチャンスまで 10万円以上の資金が必要だ。だったら少し高いが、今夜楽しんだほうが結局安く付く。世界最高の オペラは金額の問題ではない。そんな3万ぽっちの金で世界最高のオペラを諦めるのは、僕の 生き方と違う。僕は決心して、ダフ屋からチケットを入手した。ダフ屋のニイちゃんの名は、 ユージーンといった。僕の名前と似ていた。名前の親近感から更なる値引きを狙ったが、駄目だった。 その代わり、いろいろと話をした。僕がオペラ観賞のアドバイスを求めると、ジャケットは 必需品でできるだけお洒落な格好がいいとのことだった。

 さあ、ドレスアップだ。僕の格好は、ベネトンルックにはなっていたが、まだ汚らしかった。 スーツかジャケットが必要だ。オペラにスタジアムジャンパーでは按配が悪い。コートも必要だろう。 僕は案内所でアルマーニの場所を聞いてそこへ急いだ。公演時間が8時からなのであと3時間しか ない。土曜日の夕方の店はどこも混雑していた。僕はファーストインプレッションにたよって、目が 合った3つボタンのジャケットと革のハーフコートを買った。コートが予算をかなりオーバー したので、下半身の装備は見送ることにした。

 僕は一端宿に戻って、新品の服に着替えた。ネクタイを買うのを忘れていたが、まあ、その位は 勘弁して貰おう。僕の上半身は見違えるほど綺麗になった。久し振りにジャケットを羽織ると、 気持ちが引き締まった。さあいよいよ、今回の旅のフィナーレを飾るオペラだ。僕は、気合いを 入れて、スカラ座へと向かった。

 ジュゼッペ・ヴェルディのMACBETH。

 世界一の音を肌で感じ、僕の心は震え上がっていた。この臨場感をどう表現すればいいのだろうか。 からだの芯に響くソプラノと腹の底で波打つテノール。僕は6階建ての観客席の5階の壁際に 座っていた。舞台正面の186番の席だった。馬蹄形の観客席は、声の広がりに合わせて 設計されたものだという。舞台の声とオーケストラの生音が、場内の空気を震わせながら僕の体に 届いてくる。振動がダイレクトに伝わってくるのだ。僕は一人頬を赤らめ、興奮していた。この 高ぶりはシャンパンでしか冷やされなかった。オペラは4幕に分かれていて、幕と幕の間には 30分前後の休憩があった。その休憩時間に、6階のロビーでシャンパンを飲むわけだ。場内の 熱気が、静かに立ち上ぼる泡によって冷やされていくのだった。結局僕は全ての休憩でシャンパンを 飲んだ。僕は信じた。世界一の音は世界一の泡で癒されるべきなのだと。

 ところが僕の感激に 水を注す日本人がいた。何か喉が乾いているらしいが、金もないらしい。シャンパンは高いので、 このロビーで一番安い飲み物を探しているようだ。しかも水はペットボトルで持参している模様だ。 シャンパンが高いといってもフルートグラス1杯で1500円程度だ。決して高くない。世界一の スカラ座で飲むのに最も相応しい飲み物ではないか。それを適当な飲み物でお茶を濁しては いけないのだ。安物を求める彼女らの気が知れなかった。怒りのついでに、場内のひそひそ話にも 苦言を呈したい。世界一のスカラ座にも残念ながらひそひそ話はあった。観客は余計な音を 立てないことで、オペラに参加しているというのが僕の持論だ。僕もこの舞台を作る一員なのだ。 だからこそ、男性はフォーマルウエアーを装い、女性はドレスアップするのだ。最高の社交場だとも いえる。休憩時間にシャンパン片手にオペラの感想を語る事こそ、最高の贅沢だと思うのだ。 オペラの上演を待ち侘びる生活はきっと素敵な毎日だろう。オペラ観賞は最高のイベントなのだ。 だから、余計な音は立ててはいけないのだ。それなのにひそひそと話し声が聞こえる。話の内容は 大抵「暑いね」とか「凄いね」とか「柱が邪魔だね」などだ。「そうだね」としか返事の仕様が ない問いばかりなのだ。暑いからこそシャンパンがあるのだし、凄いからこそこの日を待ち侘びて いるのだ。柱は邪魔でもその席は邪魔なりの席なのだ。公演中に柱を切り落とす事もできないし、 満員の席を移動することもできない。そんな下らない質問を最高の舞台を前に問い掛けないで欲しい。 たった一言の感想が、その場の音を乱すのだ。しかも悪いことに、ひそひそ声はかなりの範囲まで 響く。耳障りにも程がある。最高を共有できない奴は退場すべきなのだ。ちなみにスカラ座のドアは、 内側からは開けられても外側からは開けられない。上演中は外側のドアの取っ手を外してしまう からだ。邪魔者は中に入れないのだ。なのに中の観客が邪魔をしてどうするというのだ。いかん。 シャンパンでも飲んで話を舞台に戻そう。

 いやその前にもう一つ苦言があった。写真だ。左手 中段付近の客が幕の度にフラッシュを炊いて写真を撮っていたのだ。せっかくの舞台が心ない一人の 人間のために台無しになった。場内は撮影禁止のはずだ。僕はひそひそ声同様許せなかった。 スカラ座の見事な舞台と装飾を写真に残したい気持ちは分かる。しかしその個人的な欲望のために 他の全員が迷惑を被るのだ。そもそもこの舞台は旅行用のカメラでは到底残せない。スカラ座の 写真ならば写真集やビデオで楽しめば良いのだ。わざわざ自分のアルバムに貼ることもない。第一 この音もあの色もここの臨場感も、写真には絶対に残せるはずがない。それはテレビ中継された オペラに臨場感がないのと一緒だ。音は残せないと何度言ったら分かるのか。瞳を閉じてこそ 浮かび上がる風景を知らないとは、悲劇以外の何ものでもない。そんな悲劇には 付き合いきれないので、話を強引に舞台に戻そう。

 スカラ座の舞台は音もさることながら色も最高だった。赤、青、黄色の三色を巧みに演出して 舞台を大いに盛り上げていた。特に黄色は震えが止まらなかった。ある場面では、王様も貧民も同じ 黄色の衣装を纏っていた。王様には光りが当てられ、貧民は影に膝間付いている。二人が擦れ違う時、 彼らは同じ黄色を着ていた。しかし一歩離れると、王様は金色に輝き、貧民は汚らしいボロ衣装に なるのだ。黄色が、光りの当て方次第で全く違う色になるのだ。そのギャップを目にしては、 震えるなと言うほうが土台無理な相談なのだ。この黄色のマジックは決して写真に残せるもので はない。はかなく、そして美しく、汚らしい。まさにブラーボだ。

 ところで僕はオペラに階級社会とレディファーストの世界を見たような気がした。まず 客席について言えば、客席は大きく分けて二つに分けられていた。富豪席と貧乏席だ。両者は ガードマンによって完全に分けられ、往来は不可能だった。貧乏席は貧乏席専用の出入り口が 用意されており、館内では富豪席の人々と擦れ違えなかった。僕は富豪席よりも高い料金を 払っていたが、正規の金額で判断されれば貧乏席そのものだった。富豪たちとは完全に隔離 されていた。舞台でも階級の差はあった。ある幕で女の子が大勢出てきて、素晴らしい踊りを 披露した。空中にぶら下がりながらの演技は、僕の胸に響いてきた。幕が終わると、カーテンコールが ある。女の子たちも全員で挨拶をしたが、最後まで拍手喝さいを浴びた少女は3人だけだった。 繰り返されるカーテンコールによって、彼女らも振り分けられていたのだ。

 主役を張るソプラノやテノールにはレディファーストの美を見せ付けられた。彼らが拍手に 招かれて舞台で挨拶するときは手をつないで舞台に現れるのだが、拍手喝さいを浴びた後、舞台を 後にするときは決まって女性から歩き出すのだ。その徹底ぶりにはヨーロッパの歴史の重みさえ 感じられる。嫌味がなく自然に振る舞われる態度にいたく憧憬するのだった。僕もかくあるべきだ。

 一言で感想を言えば、スカラ座のマクベスは今まで聞いたことがない音の連続だった。地球上に 僕の知らない音が溢れていることを思い知らされた。この音は幾らCDが発達しても幾らレーザー ディスクが発達しても到底再現できない音なのだろう。今夜ここに集った人達だけが共有できる 音なのだ。この音になら幾ら払ってもいいと思ったのだった。

 オペラが終わったのは、夜中の12時だった。宿の門限まであと1時間を切っていた。拍手喝さいは 鳴り止まないが、地下鉄の終電も気になるところだった。僕は拍手に一区切りついたところで、 スカラ座をあとにした。出演者のポスターをカメラに収めようかとも思ったが、ポスターの前に 危なそうな青年が立っていたので、簡単に諦めてしまった。最後の最後で死ぬこともないだろう。 ここは安全第一だ。ドーモ駅まで走ったが、駅では日本人の女の子が綺麗な格好で電車を待っていた。 まさに襲ってくれといわんばかりの無防備さだった。僕は他人ごとながら大いに心配だったが、 門限のほうがもっと大事だったので、彼女らには近寄らないようにして電車に乗った。彼女たちの 無事を祈ろう。

 ミラノ中央駅に着くと、スケートボーダーがたむろしていた。僕は身の危険を感じた。身なりが 今までと違い、グレートだったからだ。今夜の衣装には上半身重点だが金が掛かっていた。ここで 取り囲まれて、身ぐるみ剥されるわけにはいかなかった。僕はダッシュを決め込んで、この旅最速の 脚力で、広場を走り抜けたのだった。

 ホテルに着いて、水がないことに気が付いた。このペンションに自動販売機はなかった。外の 売店は全て閉店していた。今夜は水分補給は我慢しなければならない。水道の水を飲むのは余りにも 危険だ。仕方がない。おとなしく眠ることにしよう。明日は空港で、あさってには日本だった。 僕は喉の乾きを我慢しながら、興奮冷めやらぬ最後の夜を過ごしたのだった。

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