グロ・フレール・エ・スール
試飲日 2000年9月5日
場 所    都内某所      
照 明 白熱灯
種 類 フランス ブルゴーニュ産AOCワイン
生産者 Domaine Gros Frere et Soeur (Vosne-Romanee)
Vintage 1996 et 1997
テーマ 1996 vs 1997
ワイン Richebourg



97 Richebourg
     
96 Richebourg


 グロ一族の混乱ぶりは、ブルゴーニュを象徴している。この場合の混乱は主に飲み手側に生じている。似たような名前は、大いに飲み手を混乱さる。グロばかり。今日のグロ一族はドメーヌ・ルイ・グロから数えて三代目であり、四つのドメーヌに分かれている。
 今回のグロ・フレール・エ・スールを経営するベルナール・グロと兄のミッシャル・グロ、妹のA・F・グロ、そしていとこのアンヌ・グロである。A・F・グロはアンヌ・フランソワーズ・グロのことだが、少し前までアンヌ・グロは父と共同のドメーヌ・アンヌ・エ・フランソワー・グロだった。んーん。ややこしい。ちなみにジャン・グロの未亡人はヴォーヌロマネ村の村長だったりした。名門である。

 混乱は名前ばかりではない。A・F・グロのリシュブールは兄のミッシェルが醸造し、95年ビンテージまでは父のジャン・グロのワインもミツシェルが造っているし、ミッシェル名の同一ビンテージワインも存在する。ミッシェルがドメーヌ・ジャン・グロを引き継いだので、この現象が発生したのだろう。父の名から自分の何ドメーヌ名を変えるエピソードのひとつだ。元はひとつだったドメーヌが四分割されたために一樽に満たないワインもある。一樽なければ単独では造り得ないのだろう。

 フランスの相続法により被相続人の財産は相続人に等しく分割される。かのクロ・ド・ブージョには70余人もの所有者がいるのは相続が主たる原因だ。ボルドーではシャトーは常に単独所有であることを考えると、ブルゴーニュの特異な体質が窺い知れる。この差は所有形態の差にある。ボルドーの多くが株式会社化された法人であり、ブルゴーニュの多くが個人所有であるために起こる現象だが、ここでは多くは触れないでおこう。

 グロの混乱振りが取りざたされるのも、ワインがすばらしいものだからだ。どうでもいいワインなら、誰が造ろうがどうでもいい。グロ家のワインは名醸ぞろいだ。それはつまり、すばらしい畑を持っているということ。リシュブール・グランゼシェゾー・クロ・ド・ヴージョなど特級畑のしかも上質な畑を数多く持っている。ややこしい人間関係も、極上のワインのためには、知っておきたい情報である。

 で、今回はそんなグロ・フレール・エ・スールの看板ワインのリシュブールを二本同時にテイスティングした。総額四万円。しかもこの八月にグロのセラーから蔵出しされたばかりの、完璧な保存状態のワインを、である。なかなか体験できないテイスティングだ。


<リシュブール1997>
 抜栓後15分でボトルからそのままINAOグラスへ。色調は薄い赤系をメインに黒系が品よく混ざった感じ。この村らしい色合いだ。グラスに鼻を近づけると、強烈なアロマが畳み掛けてきた。埃っぽさの中に澄んだ花の香が鼻空を充満させる。鳥肌が勢いよく立つ。恐ろしい。私の全ての細胞の向きが一斉に180度回転したようなインパクト。息をするのを忘れてしまう。鼻から抜く感じも心地よい。できればこのまま息を止めていたい気分だ。この驚嘆のアロマを体外に出してしまうのは、いかにももったいない。今出した息をそっくり飲み込みたい気分だ。肥沃で、繊細な香はちょっと病みつきになりそうだ。

 味はきれいな辛口。若く瑞々しい飲み口だが、飲み干したときのぐぐぐっと戻ってくるうまみ成分はさすがヴォーヌロマネの特級だ。タンニンの渋みはないが、唾液がとめどなく溢れてくる。明らかに若すぎるワインではある。ワイン熟成派には幼児虐待とも言われかねないが、美味いワインは市場に出たときには既に美味いのだ。

 私は即飲み派ではあるが、さすがにこのワインに関しては熟成も待ちたくなる。しかしそれは、10年・20年の期間である。そんなに待てない。しかし待ちたい。このジレンマを解決する手段はあることはある。お金である。今熟成の頂点にあるリシュブールを買えばいいのだ。時間を金で買うようなものだが、しかし不可能ではない。金さえあれば、時空を越えることが出来るのもワインの特徴である。世の中には金銭で解決できるものと、出来ないものがあることをこのワインはしっかり教えてくれる。ただ、今の自分の立場では、そんな夢物語は描けない。この1997年のワインが熟成したらどんな風に育つのか空想し、ほくそえむだけだ。


<リシューブル1996>
 抜栓後35分でボトルからそのままINAOグラスへ。前作より20分長く時間を置いたのは、うまみを十分引き出すためである。年号の若いヴォーヌロマネの特級はデキャンタすると味が戻らなくなる危険があるからという。プロフェッショナルな人と飲むワインは、なんだかその知識と経験を享受できて、幸せである。
 このワインはどうしても1997と比較してしまう。そこがテイスティングの楽しみでもあり、醍醐味でもある。味わいが3倍濃いというのが、第一印象だ。飲み応えが違う。うまみが濃縮されている。香もリシュブールの典型だ。それはつまり、100種類の花を同時に嗅いだような複雑にして、上品な香。薬草系もかすかに感じられる。色彩も黒系の割合が多くなっている。色・味ともに濃い。年度違いがここまで違うのか。凄いぞ。
 とにかく味・香・味の三拍子のバランスがすばらしくよい。1997年が香の好印象が際立っていたのに対し、1996年はアロマのインパクトでは一歩譲るが、総合点ではこちらに軍配が上がる。それはつまり価格の差だろうか。両者は5,000円違う。その差は年数の差ではなく、味の差なのだろう。しかし両者とも大銘醸ワインだ。

 ベルナール・グロはこの年から果汁濃縮機をミッシェルと共同使用している。ブルゴーニュには7機しかない高価な装置らしい。不作の年に威力を発揮する機械らしいが、導入の理由をこのワインをして知ることも出来た。飲めば納得である。この機械のおかげで不作のビンテージにも極上のワインが造られる。ただ、濃縮するだけに生産量は10%近く減少する。そのため良年よりも高値になるという。


<おまけ>
 ドメーヌからはロマネ・サン・ヴィヴァンの畑を眺望し、アルファロメオを乗りこなす当代きってのボンボンが造り出すワインもまた極上の一杯であった。育ちの違いを見せ付けられた。しかし、そんな遊び人堅気も、芸人にとっての肥やしのようなものかもしれない。道楽人の造るワインに魅了されるのは悔しくもあり、遊び人の端くれとして、根底には同じ遊び人の血が流れている親近感もある。

 結果が全て、つまり味が全てのワインの世界にあって、この血筋のいいドラ親父の今後に目が離せない。想像するに、まじめにワインを造るものにとって、極上の畑を大量に所有しているこの遊び人に嫉妬を覚える生産者も多いだろう。努力しても日の目を見ない生産者は少なくないはずだからだ。
 狭いブルゴーニュでは、畑を持つことこそが絶対条件だからである。天才アンリ・ジャイエでさえ畑を持てなかった事情が、彼の引退を早めた。畑を持ちたくても持てない人々にとって、このボンボンはこん畜生な存在だろう。しかしそんな見当違いな嫉妬を知ってか知らずか、ベルナールは今日も自慢の愛車を走らせていることだろう。

以上


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