シャソルネイ | |||||||||||||||||||||||
試飲日 2005年02月09日 | |||||||||||||||||||||||
<はじめに> 今回は、スペシャル企画としてドメーヌ・ド・シャソルネイの2003年ビンテージの水平テイスティングに参加する機会に恵まれ、この場を借りて感謝と共に少しばかり記してみたいと思う。 2003年のブルゴーニュは驚異的な酷暑に見舞われ、その評価は難しく、絶賛する人もいれば、静観する人もいるといった状況だろう。そんな異例づくめのビンテージに、シャソルネイはどんなワインを造ったのか・・・。その興味はグラスへとく向けられたのだった。抜栓は午後8時ごろで、6本のワインを同時に抜栓し、すべてリーデルのヴィノム・ブルゴーニュグラスに静かに注がれた。室温は通常よりも推定で5℃ほど低く、それはワインセラーと同じ温度設定だった。タートルノックのセーターを着ててもヒンヤリとその寒さを意識する感じ。そして途中から加わった某氏と共に、ワインを注ぎ足しては、議論は時計の針を意識させず、結局は4時間も経過し、日付は変わってしまったのだった。 <白ワイン部門> グラスに注がれた3つの白ワインには、昨年までのシャソルネイ的な色合いはなく、それはつまり非常に細かい澱がなくなっていて、澄んだ色合いだった。ブルゴーニュ、サン・ロマン、オーセイ・デュレスと比べるとワインの格があがるほどに、その色合いに濃さを意識させ、エッジに緑を意識させつつ、クリアゴールドともいいたくなるようなそんな美しさがある。(ボトルを飲み進めるうちに徐々に濁ってはくるが・・・) 結論から言えば、この3本のワインは、とても難しいワインである。抜栓直後、5分後、30分後、2時間後、4時間後の姿がそれぞれ全く異なり、どの時点での試飲によるかで、ワインの評価は完璧に異なってしまうと思われた。抜栓直後は、明らかに酸が足りず、往年のトロピカリーさやミネラル感は影を潜め、輪郭がとてもぼやけたワインであった。シャルドネらしいナッツやバターなどの要素を踏まえながら、なんとも微妙なニュアンスに、プラス的な解釈を要する言葉を捜さざるをえない。ランクが上がるほどに、濃縮感も増し、ワインの骨組みも確かなものにはなっていくが、いかんせん酸の弱さが致命傷を負っていて、それは例えばお盆に落とした水滴に表面張力がなく、だらりと湿っているような感覚なのである。2002年と比べるならば、その全て要素において、格段に情報量が少なく、唯一2002年よりも多い情報といえば、真夏の太陽を意識させる過熱感だけだった。ワインに緊張感がなく、シャソルネイ伝説は、このビンテージでもって終了しかねない危機に襲われたりした。 もちろんアルコール感はあり、うまみもそこそこあり、余韻もそこそこある。みんな、そこそこ。あのひどく暑かった年に、良くぞここまできれいにワインを造ってきたと、そんなマイナス思考の中にプラスな面を探す作業に時間を費やしながら、時間と共にワインは衰退の一途を辿り、30分後にはその使命の全てを終了させたかのように思えたりした。すこし黄ばんだアルコール水・・・。うーん。辛い。 しかしである。このワインを飲み初めて、3時間以上経った頃から異変が始まるのである。それは、ボロボロに焼け焦がれてしまった玉葱の外側の皮をバリバリと剥がし、中心部のまだ火が通っていない、新鮮さを失っていない部分の美味しさ。あるいは、鮨さわ田で食べさせる数日熟成させ、変色してしまったマグロの外側を切り取り、うまみの塊となった中心部だけの握りに共通する、ただれた表面からは推測すらできない中心部のうまみが、奇跡的に表に現われてくるのである。 酸の種類が違っているのか。化学的な根拠は見出すはずもないが、酸がボディを引き締め始め、そしてシャソルネイ節ともいえるトロピカリーでミネラルな味わいが復活し、そしてとても余韻が長くなっていく・・・。ブルゴーニュにもその美味しさが頬を緩めさせ、サンロマンはミネラル感に長けてはいるが、一瞬その余韻がぶつ切りにされた印象を持つこともあったが、概ね良好で、ブルゴーニュとの格の違いを見せ付けてくれる。そしてオーセイ・デュレスは、ムルソーと地続きであることを強く印象付け、逆に一山違うことによる寒冷的な恩恵を想像させ、酸の崩壊を免れて、リッチで複雑な味わいを醸しだしてくるのであった。 三本の白ワインは、比べることでそのアペラシオンの個性を如実に反映し、ブルゴーニュにおけるAOC制度の合理性を見出せる。しかし、総括するならば、このワインは飲み方がとても難しいワインである、ということになりそうだ。抜栓直後のひどく暑かった夏を彷彿とさせる味わいに、批評の言葉を連ねることは簡単で、最終的なうまみをどう感じるかによって、それをどう引き出すかによってワインの評価は必ず違ってくると思われる。100点法によるワイン評価の限界を感じさせ、それはつまり従来の尺度では、測定不能を意味しているのだ。また飲み手の力量も問われている。ワインに対する立場の違いや、思いいれ、ワインに対する愛情の違いによってもこのワインの楽しみ方は異なるだろう。 <赤ワイン部門> さて、同時進行した赤ワインであるが、これも抜栓直後の厳しさが、今でも心に残っている。まずはその色合い。非常に濃いルビー色で、この色合いはかつてないほどの濃さである。この濃さをもって、ぶどうの過熟具合を容易に想像することもできるだろう。香りは閉じ気味でシャソルネイ節ともいえる燻した梅がつお風味は影を潜め、ローヌ南部のグルナッシュ種を思い起こす白系スパイスの香りに戸惑いを覚えたりする。口に含めば、出がらしの紅茶にも似た苦味を意識し、乾くタンニンに口の中は乾ききり、繊細なピノ・ノワールらしさを感じえず、突出したタニック感と強めのアルコール感に灼熱を思い起こさせ、うまみの存在を遠くに確認するに留まるのだった。そして致命的ともいえそうな酸の欠如に、なんともバランスを欠いた感じが否めなかった。これは3種類の赤ワインに共通する味わいで、AOCの格があがるほどに、ボリューム感は上がり、バランスの悪さも拡大していった。そして無駄に時間ばかりが過ぎていき、サッカーの北朝鮮戦の結果や近所の洋食屋さんのカツサンドの美味しさに、話題をすっかり移しつつ、しばしシャソルネイから離れることを余儀されたのだった。 ところがである。抜栓して3時間を過ぎるあたりから、ワインに変化が見られるようになった。それは突然やってきた・・・。そろそろ時間も遅くなり、お暇しようと最後の確認のために口に運んだそのときだった。 うまくなっている。というより、うまい。 今までのタニックばかりに傾いたバランスの悪さは解消され、従来型のシャソルネイの赤の風味が満ちているではないか。ほんのりとした梅がつお風味。強烈な迫力やボリューム感こそないものの、従来からの癒し系の味わいが展開され、なんとも「ほっ」とうまいと溜息交じりの感想が、長かったシャソルネイ2003との格闘に終止符を打たせると共に、ごくごくと飲み干したい気持ちに駆られるのだった。 どうして酸が復活し、タンニンが丸くこなれてきたのか不思議であるが、ワインが喉元を通り過ぎる時に、そこに集中する味蕾を優しく刺激して、なんとも健気な味わいになっているのだった。うまみの到来。喉もとがこのピノ・ノワールを、体全体がこのピノ・ノワールを欲している。そんな味わいなのである。この美味しさに気付くことができ、心の底からほっとするのであった。そして各アペラシオンの個性の妙を知りながら、ニュイ・サン・ジョルジュのポテンシャルの高さが、長く心に刻まれるのだった。 <まとめ> シャソルネイの2003年のワインは、飲み方が難しいワインである。ただ美味しいワインが飲みたいだけなら、このワインは選ばない方が、もう少しはワイン好きでいられそうで、他人の着飾った文章に便乗すれば、在庫分のワインは売り抜けることも出来るだろう。そして、このワインの楽しみ方を探ろうとすれば、かつてないほどの知恵が要求され、ホスト役は極度の疲労感を覚えることだろう。この疲労感を楽しめるか否か、その疲労感を自分で背負い込むのか、あるいは誰かに任せるのか、その判断は難しいかもしれない。 このワインは、飲み手の立場によって味わいが変わるかもしれない。初めてシャソルネイを飲む人には、「ふーん」的な感想かもしれず、2003年ビンテージを知る人には、いろいろな言い訳が用意されているので、薀蓄も語れそう。そしていろんなワインを飲み込んできて、ようやくシャソルネイにたどり着いた人には、抜栓直後の違和感にちょっとした失望感を持ってしまうかもしれない。このワインの美味しいところを探そうとする人と、2003年の酷暑にかこつけて批判精神が旺盛な人とでは、ひとつのグラスに注がれたワインを相互に試しても感想は違うことだろう。自分がどの立場にいるかを認識しつつ、このワインの美味しさが共有できたら嬉しいと思う。 従来のシャソルネイのワインはどちらかといえば、ハッピー・ワイン系で、何も考えずただ、どばどばとグラスに注げば美味しい太陽の味わいを楽しむことが出来た。「うめぇ・・」といいながら心はハッピーになったのである。またケミカリーなワインにヘキヘキし、ようやくシャソルネイにたどり着いた人には、神様のような存在にもなりそうであったが、2003年のシャソルネイは明らかに、その味わいを変えてきていた。ハッピーワインではないことへの失望の向こう側に、頂上の風景を諦めてこなかった登山家だけが知りうる山頂の喜びにも似た、なんというか、「泣ける」ワインのカテゴリーに突入したというべき味わいかもしれない。 そして、ふと思う。 太陽がギラギラと輝き、ひどく暑かった大地。その特異なビンテージにおいて、ブドウを救ったのは、「月」の見えないパワーだったかもしれない、と。ビオディナミは日本で言えば、旧暦(太陰暦)による農業や漁業と大差はなく、それは例えば家屋や神社仏閣の柱のために伐採する木材は、新月の夜(いわゆる闇切り)に伐ることによって数百年の寿命を得る経験則になぞられている。漁も旧暦を読まずしては成立しないという。月の運行は、地球の大地と海に影響を及ぼすことが証明されつつあり、自然の摂理やそれを裏付ける科学に対応したワイン造りの醍醐味を大いに楽しみたいと思ったりする。2003年こそ、ビオディナミ農法の真価が証明されるビンテージになるかもしれない。 ひどく暑かった夏。 造り手はその太陽と格闘しながら、あるものはそれを言い訳にすることもできるだろうし、月の力を信じていたものは、太陽のパワーを完全には回避することができずとも、月の力によってワインを育て上げられたかもしれない。キーワードの「月」をイメージして飲むことができたら、このワインはきっと美味しくいただけるはずだ。そしてあの夏との格闘は、造り手から飲み手に移行し、飲み手がその食卓においてどう一本のワインに接するかによって、ワインの楽しみも千差万別になっていくのだろう。 あのひどく暑かった夏を思いながら、飲むワイン。ワインが農作物からできる不思議さを2003年ビンテージでもって体感できるような飲み方が出来たら、ワインの魅力にまた一歩近づくことができるかもしれない。 おしまい |