D.R.C.
試飲日 2005年06月17日
場 所    都内某所
照 明 白熱灯
種 類 フランス ブルゴーニュ地方赤ワイン
生産者 Domaine de la Romanée Conti (Vosne-Romanée)
Vintage 1970
テーマ ブルゴーニュ その頂点の形
ワイン ROMANÉE-CONTI Grand cru

<特級ロマネ・コンティ>

  気持ち冷やし目にして、抜栓後すぐINAOグラスへ注いでブショネチェック。問題はなく、つづいて小一時間ほど待ってから、リーデル・ヴィノム・ブルゴーニュグラスへ均等注ぎしてサービス・・・・・。

 さて、ロマネ・コンティである。このワインを私は2時間ほどの経過軸の中で、時間を変えて、三口ほど飲んだ。そしてそのたびに、その偉大なる味わいに溜息を吐かざるを得ず、飲み込んでから推定23秒後にとめどなく押し寄せてくるうまみ成分に心と体を震わせ、全身に皮膚には鳥肌が立ち、体は火照り、そして改めて深い溜息をつくのであった。

 大収穫が記録された1970年のロマネ・コンティ。手元の資料に寄れば、収穫は10月9日。そのラベルには9,626本生産されたとあり、ナンバリングされたこのボトルには4,283本目と記されていた。1.8haの特級畑から生産されるには、意外なほどの多さに関心を寄せながら(注)、私は、35年の歳月を経て、絶妙な色合いになったピノ・ノワールの、あるひとつの完成された色合いを眺めていた。誤解を恐れずに例えるならば、その色合いは、色白の日本人女性が日焼けした胸元を、レストランの白熱灯の下で少しだけ露にし、そしてこのロマネ・コンティを飲んで、その肌にもう少しだけ「朱」をうっすらと入れ込んだような、そんな色合いに似ていた。あるいはそれは、谷崎潤一郎の名作「春琴抄」で、盲目になった晩年の佐助が、若かりし頃の三味線の師匠春琴の「皮膚が世にも滑らかで四肢が柔軟であったこと」(新潮文庫41ページ初段より抜粋)を左右の人に語りかけては、欠かすことはなかったという春琴の晩酌の光景を思い出し、ほんのりと紅くなった色合いを思い出したときの、そんな色に似ているような、そんな空想が私に語りかけてくるのであった。いずれにしても、その見事な色合いは、現実の色の名前を探すのではなく、過去に体験した、あるいは想像した朱に近い紅い色を思い描かせるのである。

 香は、温度が室温に馴染んだ時に、見事に開花し、リーデル・ヴィノム・ブルゴーニュグラスでも十分に表現されてはいたが、某氏持参のロブマイヤー社のブルゴーニュNo.3グラスに注いだ時に、絶頂を迎えたようである。およそこの世のものとは思えない、官能的で、妖艶で、エキゾチックで、オリエンタリックで、甘美で・・・この香に対しては、およそ的確な言葉は捜せるはずもないが、それは真に不思議な香であった。人の生命活動を一瞬たりとも停止させうる香。その香をして胸がきゅんとなることを覚え、一度吸い込めば、外に放出することを体が拒み、気管支が一瞬閉ざされるような、そんな感覚に陥りながら、それを言葉にすれば「うっ」としか発せられないパワーを持っているのだ。ピノ・ノワールの古酒に共通する干しイチヂクに梅鰹・・・、ピノ・ノワールの香に対応する日本語の語彙の少なさに嘆きながら、言葉に表すことを邪道と感じざるを得なかったりもする。

 そしてその味わいである。ワイン用語集的には、ロマネ・コンティをして、完璧なる球体という表現が用いられるが、今宵のロマネ・コンティは、まさにその妙。果実味の今なお存在する若々しさと35年の「時」を感じさせる熟成感のバランスは絶妙で、非の打ち所がない。酸とタンニンのバランスも球体のごとし。うまみ成分の塊を意識させ、古酒にありがちな飛び抜けがちなアルコール感はなく、そのバランス感覚がとても身体に馴染んでいる。突出した要素がない代わりに、全ての要素が完璧なバランス感覚で成立しているのである。そしてその球体は、予想以上に大きいのである。余韻は、前述のようにゴクッと飲んでから、少し遅れてやってきて、そしてじんわりと漂い続ける。永遠に、と願う余韻は、それでも儚く切なく消えていく。それはあたかも、つげ義春の「紅い花」(小学館文庫)のあの花びらが川下に流れていくように。

 ロマネ・コンティ 1970。

 1970年にロマネ・コンティの畑に降った雨が、35年の時を経て今蘇り、そして消えていく。グラスのワインは空になれども、その記憶はおそらく一生消えることはなく、あの味わいの記憶は、いずれ立つことになる我が墓石をほんのりと紅く染めてくれることだろう。ちょうど、日に焼けた白い肌がピノ・ノワールの色に染まっていくように。

 ブルゴーニュのヒエラルキーの頂点に君臨するロマネ・コンティ。数千、数万ものブルゴーニュが織りなす複雑にして高くそびえる大山脈は、実は富士のごとくの三角錐にも似た形をしていて、その頂点にすっぽりと収まるような感情を覚える。その昔、蛸の吸盤にも似た突起をもつプラスチック製のブロックをいくつも積み重ねて、家を作った思い出があるが、その正方形のブロックをいくつも重ねて築き上げたピラミッドの頂点には、突起のない特殊な三角錐のブロックが必要で、そのブロックは途中の用途には全く使えず、ただ頂点を飾るのみの形状をしているものだが、今宵のロマネ・コンティは、まさにそんな三角錐の頂点を飾るブロックにも似て、ブルゴーニュというヒエラルキーを容易に完成させてしまうのだった。

 幾層にも連なる複雑な魅力を持つブルゴーニュワイン。しかしロマネ・コンティはその頂上に容易にたどり着き、それは地表からようやく登りつめるのではなく、天空からわざわざそのスポットに降りてくるような感覚である。今までのブルゴーニュを決して否定することはなく、ただその上座に極普通に座ってしまうのであった。この感覚は、ビンテージを揃えた事はないのだが、ラ・ターシュにも、ミュジニにも、シャンベルタンにも、リッシュブールにも、そしてロマネ・サン・ヴィヴァンにもない独特の個性だと思う。唯一似ているとすれば、白のモンラッシェ(2001年のラフォン作が印象的)であり、ことワインに関する限りは、私は他には探すことはできそうにない。

 しかし、この感覚はワイン以外でならば、容易に見つけることが出来るかもしれない。それは前述の「春琴抄」であったり、「紅い花」であったり、千住真理子がストラリバリウスで奏でた「G線上のアリア」であったり、石川さゆりの「天城越え」であったりする。これらの比喩に共通するものはなんであるか。それを言葉にするのは止めにして、ロマネ・コンティの酔いに少しばかり身を任せてみよう。それは「春琴抄」や「紅い花」を表面的に、ではなく、本当の奥深さを知るには、ある程度の人生経験が必要であり、それを言葉にしてしまうのは、野暮なのだから。

 ロマネ・コンティ 1970。

 この星の奇跡を、私は信じます。


おしまい

(注) 1.8haで9626本ということは、マグナム瓶以上の瓶詰めを換算しないで計算すれば、40hl/haなり、INAOが求めるこのアペラシオンの最高収穫量35hl/haを上回るが、その当時に何らかの救済処置がとられたことと推測される・・・。


 


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