ジャック・セロス | |||||||||||||||||||||||
試飲日 2005年07月02日など | |||||||||||||||||||||||
<1990 シャンパーニュ> シャルドネの世界最高の地は、ブルゴーニュの特級畑モンラッシェということになっているが、何十年かに一度、たとえば1990年という年において、その座をジャック・セロスのアビーズ村に譲ってもいいかと、このシャンパーニュを飲んで、思う。 このシャンパーニュは、シャンパーニュとして飲むのではなく、白ワインとして飲むほうが、その最高の味わいを共有でき、それはジャック・セロス本人も提案するところでもあり、またトゥールのレストランの主も主張するところであり、かく言う私もそれを信じてやまないのである。このシャンパーニュは、抜栓後にデカンタージュしなければならない。シャンパーニュの最大の特徴である泡を犠牲にして、リーデル・ブルゴーニュのような大き目のグラスにたっぷりと注ぎ、まさにモンラッシェと同等かそれ以上の配慮をもって、臨まなければならないのである。 なぜならば、数年前にデゴルジュマンを終えている1990は、抜栓直後はいわゆるブショネではないコルク臭がついており、ひねたニュアンスが支配的で、味わい自体にもなんら感銘するところがないからである。永い眠りから覚まさなければならない。そのためにデカンタージュが必要なのである。 シャンパーニュという寒冷地にあって例外的にぶどうが完熟し、しかし寒冷地ゆえに酸もしっかりと存在し、モンラッシェでもかなうことが少ない、完熟と酸の残存という相反する要素の絶妙なバランスが、セロスの1990年には奇跡的に存在し、その奇跡は、ただグラスを傾けるという無知な仕草からは、到底その存在を意識することはなく、セロス本人との情報の共有を経て認識できるものと信じるならば、白ワインの傑作として飲むべきワインなのである。 デカンタをしてもなお、2時間は待ちたい。そしてゆったりとグラスに注ぎ、それでもなお存在する泡に敬意を払いつつも、さらにグラスの中で成長させなければならない。それはあたかもセミの幼虫が数年間を地中で過ごし、ようやく樹の上に到達してもなお、蛹の過程を経て飛び立つかのごとくである。そしてそれはセミのごとくの儚い一生に共鳴するものでもあるが・・・。 完璧に熟成したせロスの1990は、香に極上のハチミツ香を備え、それは泣きたくなるほどの締め付け感があり、全身の細胞がこの香に翻弄され、そして官能という世界に到達してしまう。この香は、かつて経験した同類の香に比して次元を超越するかのごとくのレベルに到達しており、しかし前世において経験したかもしれない遠い記憶に重なる時、両方の瞳からは、涙がきゅっと流れようとするのである。そしてまた口に含めば、究極の球体を連想し、とめどなく長い余韻に浸る喜びに包まれるのである。 ワインで泣くということ。 まさにセロスの1990年がその典型であり、これは残念ながらセロスのもうひとつの傑作キュベ・シュブスタンスをもってしてもこのレベルを体感できないのである。それは、大地の恵の本質という点において、両者に差があるからであろうか。謎は謎のままにして、その記憶は来世までもって行きたいと思う、そんなセロスの傑作に感動である。 おしまい 余談 この経験を踏まえ、2005年8月20日に都内でもう一度体感させていただいた。感謝である。 |