エドモン・コルニュ | ||||||||||||||||||||||||||||||
試飲日 2001年6月2・5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
<味わい> ゆっくりとゆっくりとグラスに注ごう。さもなくば一瞬にして澱が混ざり、さらには味わいも壊れてしまうだろうから。静かに、そしてゆっくりと、25年もの歳月をドメーヌのセラーで眠っていたワイン。25年前のコート・ド・ボーヌの村名ワインは、どんなワインになっているのだろうか。特にショレ・レ・ボーヌのワインは特級も一級も持たない地味なAOCにして、コルニュというあまり有名ではない造り手のワインである。ロバート・パーカーJrの書では、かなりのページを割いて紹介しているが、日本ではほとんど見かけない造り手である。ある信頼すべき情報によれば、コルニュのワインはほとんどがアメリカとヨーロッパに出荷され、残りはセラーに寝かされるという。日本にはほとんど入荷しないようだ。 そんなコルニュは今まで飛ばし読みしていたページの造り手にして、今回の出会いはいきなりの古酒である。普通、知らない造り手のマイナーな場所の古酒には手が出しにくいものだ。四半世紀に渡りどんな状態で保管されていたのかも心配であり、相対的に早飲みタイプのブルゴーニュにしてコート・ド・ボーヌの中でも地味さでは有数の村の忘れ去られていたワインという感も否めない。ここはじっくり堪能したいところである。 <ショレ・レ・ボーヌ> 儚い味わいも一興である。やさしく、繊細にして、そして儚い。熟成したワインの最後の一滴を味わうかのごとく、治りかけのかさぶたをゆっくりとゆっくりと剥すかのごとく、微妙な飲み応えである。うまい。ピノ・ノワールが土に戻る直前の味わい。グラスを5度傾けてしまったら壊れてしまいそうな、そんな印象。お行儀は悪いが口をグラスに近づけて、グラスを静かに傾ける。んんん。古酒のおいしい一面に触れられたようで、なんだか心が穏やかになる。人生の夕暮れと街の夕暮れが重なるとき、こんなワインが食卓に添えられていれば、多分泣いてしまいそうな、そんな時の流れを感じつつ、である。最近のビンテージの果実味あふれるパワフルなワインも大好きだが、こんなに静かな古酒もやっぱり素敵だ。 <アロース・コルトン> 1976というショレ・レ・ボーヌと同じ年ながら、どっこいアロース・コルトンはまだまだいけるしっかりした味わい。果実味も感じられ、渋みすら味わえる。まだあと数年は堪能できそうな余力が感じられる。これはひとえにグランクリュを持つアペラシオンの地勢の利であろう。ワインは場所であるを25年かけて語り掛けてくれるような、そんな風情がある。骨格がしっかり残っている分ワインとしての味わいはショレに勝るが、個人的な趣味から言うとショレのあの儚さに一票を投じたい気分である。 <特級コルトン・ブレサンド> 私のコルトン史上トップに踊り出る偉大なワインである。口に含めば、全身が反応し唾がとめどなく溢れてくる。花のような香りはコルトンの特徴を混乱させるが、まさに今が頂点を極めているというパワーも感じる。古酒の粋に達しながらも果実味をしっかり携え、飲むごとにうまみ成分の虜になる。オークションにして1990のラターシュと同一金額で落札されたという情報は真実味を増し、落札者の幸せな食卓を想像するとき、ワインのおいしさを共有する喜びに包まれる。 以上 |