ワインの点数 その1  2004/04/08
 
 書店に並ぶワイン雑誌やホームページ上のワイン関連サイトの多くには、「ワインを点数で評価する」という傾向がある。もちろん【ブルゴーニュ魂】では、ワインの数値化そのものを否定はしないが、積極的には取り入れていない。ワインの数値化は、その功罪はともかくとして、評価者の能力が長けていることを前提とするならば、最もわかりやすいワインの評価方法だとも思われ、巷にはワインの点数が溢れているのも事実だったりする。またプライベートに、個人で点数をつけるならば、そのワインの記憶方法のひとつとしても、結構楽しそうな作業かも知れず、ワインの点数を巡る冒険は、決して終わることのないテーマだったりもする。

 今回は、あるワインとの出会いを通じて、ワインの点数というものに関心を寄せてみたくなり、ちょっとシリーズ化しようかと思っていたりする。まずは第一回目を早々に展開してみよう。


 【1936年シャトー・ムートン・ロートシルトとの出会い】 

 某日、某所にて某氏らと表記のワインを堪能させていただいた。まずはこの場を借りて御礼申し上げるとともに、そのとき感じたことを一つふたつ。このワインを飲んだ時、私の脳裏を掠めたのは、大感激と共に、ワインの得点だった。このワインを点数で表そうとするならば、何点になるだろうと思ったのだ。弊WINE DRINKING REPORTには点数評価がないので、なんともあれではあるが、この時ばかりは点数でもつけてみるかという気になったのだった。

 私の出した点数は、百点満点で評価するなら、ちょうど80,000点だった。なぜに8万点なのかは未だ解明されないが、末広がりだし、ゴロもよさ気なので、80,000点ということにした。思いつきにしては結構いい数字かもしれない。一方で、思わず自分でも「なんじゃそりゃ」と突っ込みを入れたくなるが、これはひとえにこのワインを数値化する無力さの現れでもあったりする。

 ワインを数値化するということは、後に同じワイン(同一畑・同一年号・同一生産者で、どれかが違えば、それは全く違うワインである)を飲む人にとっての「指標」や「目安」という意味づけだと思われる。この前提に立てば、表記のワインは次の点で数値化されることを拒んでいるのである。


 その1 同じワインを入手することが極めて困難であること。

 その2 68年前のワインゆえに保管状態・経路によってボトル差が顕著と推測できること。

 その3 味わい自体の評価よりも重い何かがこのワインにはあること。


 まずは、その1について
 このワインはシャトー・ムートン・ロートシルトがまだ二級格付だった頃のワインで、生産量はそのエチケットによれば、僅か58,788本しか生産されていない(各大きさのボトルすべての合計 ちなみに当ボトルはNo,33,694)。68年の歳月を経て、日本に、世界に、このワインがあと何本あるかは想像に難く、同じワインを求めようとするならば、世界中のワイン・オークションに日々注目するか、シャトー・ムートン・ロートシルトに絶大な貢献や利益をもたらせ、シャトーに招待され歓待を受けたときにリクエストするか、裏ルートを駆使して世界的なテ○組織やらその筋の親分方に相談してシャトーに眠るワインを強奪してくるしか、手立てはないだろう。

 そうなのである。あまりにも古いワインであるために、同じワインが現存する可能性が極めて低く、ワインを数値でもって評価しても、誰の指標にもならないのである。


 その2について
 かりに百万歩譲って、このワインを入手できたとしよう。しかし私が飲んだこのワインと、誰かのそのワインとでは68年間という歳月の過ごし方が違うことが予想され、地球の裏側からどうやって日本にたどり着いたのか、その経路や保管条件が違えば当然ボトルの差も現われてくるわけで、同じ1936年のムートンとて、それぞれに違った味わいが展開されているはずである。仮に同じ出所の同一ロットの一本だとして、全く同じ味わいが展開されていようものなら、私は謝るしかなさそうだ(誰に?)。


 その3について
 ところで、1936年のワインを飲むということは、味わいそのものに期待するのはもちろんだが、某氏が指摘するように「1936年にシャトー・ムートン・ロートシルトの畑に降った雨の味」を思い偲ぶという要素のほうが100倍以上重く、このワインを通して68年間という歳月を楽しむほうがハッピーだろう。

 ところでこんな書き方をすると、このワインの味が今ひとつだったようにも受け取られかねないが、決してそんなことはなく、若々しさを伴った何ともいえない絶妙な味わいに、言葉では言い表せない感動が襲ってくるのだった。その長きに渡る歳月とともに、この極上の味わいは、夜毎ワインを飲んでは語られるかもしれない・・・。

 1936年に収穫されたカベルネソービニョンやメルロなどの葡萄を用いて醸造されたこのワインは、誰かにとっては両親のビンテージ・ワインかも知れず、第二次世界大戦の戦火を逃れ、自分が生まれる遥か前の、先人たちの英知の結晶に、咽ぶ涙は見せつつも、数値化はありえない評価方法なのである。その思いは心に秘めろ、である。ボロボロになったコルクと固体化した澱とそれほど汚れていないエチケットはつい最近貼られたものだろうかと思いつつ、絵画バージョンが展開される前で、なおかつ、メドックの格付は第二級である事実がワインのストーリーを幾つも発展させるのだった。

 1936年に限らず、相当古いビンテージのワインを楽しむということは、味わいそのものも、もちろん大事な要素には違いはないが、その比率は最新ビンテージや飲み頃を迎えた古酒(たとえば今なら1982年ビンテージ)を買ったり飲んだりする場合に比べ、格段に低く、またアペラシオンの違いやら葡萄品種の違いやらを見出すこともなく、ただただ「畑の雨」を味わうのみ、なのである。しかし、凄い経験をさせていただいたものである。(ちなみに歴代第三位の古さ)。


 まとめ、のようなもの
 今回のように、同じ(状態の)ワインを飲む人がいないという現実を踏まえれば、ワインの数値化は意味を持つことが出来ず、ただ単にふたつまたは三つの数字の組合せでしかないと思う。(私の場合は5桁になってしまったが・・・)。けだし数値が購入の目安になることはなく、飲み方の参考にもならないからである。

 逆に言えば、あとに続いて同じワインを飲む人が想像できて、購入するか否か、いつ飲むべきかどうか、どうやって飲むのが良いかの参考になるならば、ワインの数値化は意味を持つかもしれない。数値化する人がそれなりの力量や愛情をもって数値化するならば・・・ではあるが。


 次回は評価する人にスポットを当ててみようかと思いつつ・・・


つづく



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