深夜のポマールの丘は、とても静かだった。
誰もいない闇夜の畑の斜面に腰掛けて、頂上からの少しの風を感じ、
ビール片手にボーヌの街で買った、安サンドウィッチをかじるなら、
その咀嚼する音だけが、畑にこだまするほどの静寂。
私は、丘のてっぺん近くの斜面に車を止めて、
遠くにボーヌの街の明かりと、国道の交差点を照らす外灯と、
その道を、かなりの間隔をあけて走る幾つかの車のライトを見ていた。
それらの灯りのためか、ポマールの丘には完璧な暗闇は訪れることはなく、
それは外灯のないシャンベルタンの斜面の真っ暗闇な夜とは、
意外にも対照的な風景・・・なのかもしれない。
星を見上げれば、オリオン座のラインが浮き上がる。
それにしても星が、とてもきれいな夜だった。
明日はきっと晴れるだろう。
明日のポマール1級クロ・デ・ゼプノーの収穫を控え、
今夜はなぜだかポマールの斜面で眠りたくなり、
9月下旬も押し迫ったその夜は、風も冷たく、
ビールの力を借りなければ少しばかり寒すぎて、
音の途絶えた畑に耳を寄せては、
自分の心臓の音を意識した。
少し、歩く。
粘土石灰質の斜面を進むその足音もまた、独特の音を奏でてくる。
それはアスファルトからは決して発せられることのない音。
私はまだ収穫されていない葡萄に、
そっとオリオンのほのかな明かりを誘導し、
この葡萄の実だけには、いつもとは違う夜の風景を演出してみた。
葡萄に触れて、誰もいない深夜のポマールの斜面で大きく深呼吸。
ポマールの空気は、ことのほか澄みきっていて、とても清らかで、
その冷ややかな空気の一部が我が肺に断続的に送り込まれてくる。
そしてその中に、畑の真ん中にして、海の香りを確認した。
この磯の香りは、葡萄がワインとなっても消えることはなく、
その繊細で奥深い味わいに、ミネラルをもたらしてくれることだろう。
今夜。
ホテルに宿を求めなくて正解だ。
ポマールの丘で収穫間際の葡萄と共に過ごす夜が、
薄汚れた自分に清らかさを思い出させ、
盆栽のように木目細かく手入れされた畑に、
天の恵みと地の恵み、そして人の英知を思い知り、
ボーヌからのほのかな明かりに葡萄の整列を探す時、
生命の不思議な尊さが芽生えてくる。
車に戻って、目を瞑る。エンジンも暖房も、もちろんかけない。
あと数時間もすれば、自ずと夜もあけるだろう。
それは、一人のジョギングによってもたらされる朝かもしれない。
明日。
この葡萄は、世界中から集まる収穫人によって樹から切り離され、
ワインへの第一歩を踏みしめることになる。
それは予期された葡萄の死を意味し、
ワインの誕生を期待させる貴重な一瞬。
耳を澄ませば、ワインの産声が聞こえてくるような、
そんな音が、深夜の斜面からも聞こえてくることだろう。
その夜の深夜のポマールの丘は、とても静かな夜を迎えていた。
葡萄にとっては畑での最後の夜。
私にとっては畑で眠る始めての夜。
窓ガラス越しに見つけたオリオンのゆらめきに、
明日はきっと晴れるにちがいない。
そして、数年後・・・。
2004年のポマールが食卓を彩る夜のこと。
私はきっと、闇夜に照らされた葡萄畑の風景を思い浮かべながら、
その液体をゆっくりと体に流し込むことになるのだろう。
まるで、9月28日の夜の寒さに震えた体を、温めるかのように。
おしまい
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