グラスの限界  にしかたゆうじ

 最近、天然微生物尊重系のワイン( = 自然派ワイン = ビオディナミやビオロジ農法での葡萄栽培と、天然酵母による発酵と酸化防止剤の醸造中の未添加をワイン造りの哲学に謳っているワイン)を飲む機会に恵まれ、とても美味しい気分にさせてもらっているが、ふと思うことがある。


 それはINAOグラス(注)での評価の限界、というものだ。


 ロワールのビィオディナミストのワインは、しばしばINAOの官能検査に落ち、テーブルワインとして出荷されているものも多い。従来型のワインとは質を異にする自然派ワインは、INAOのお役人たちにはそうそう受け入れられず、AOC法の限界も露呈させているが、まさにその現象を裏付けるかのように、自宅で官能検査用のグラスでもあるINAOグラスでそれらのワインを味わっても、大した感激もなく、より大きなグラスでなければ、持ちうるポテンシャルを表現できないのではないだろうかと思う日々が私を取り巻いている。


 INAOグラスでの試飲に限界を感じざるをえない。


 自然派ワインに重きを置く某所では、リーデルのエクストリーム・シリーズにてワインの評価をし、私はヴィノム・ブルゴーニュグラスを多用することで、造り手の意志をグラスの中に再現しようと思っている。逆説的にとらえれば、INAOグラスではその美味しさを表現できず、またそれらのグラスを使用してのワインのレビューやコメント、点数にはなんらの価値も見出せなくなっている(と断言すると、友達が減り、見知らぬ敵が増えそうなので、むにゃむにゃむにゃとお茶でもって濁した方がいいかも・・・あはは)。


 そのグラスでは、そのワインは測れない。


 ワインを測るメジャーが小さすぎて、そのメジャーでは全体が測れないのではなかろうか。それはマラソンの距離を計測するのに市販の巻尺を使用しているかのごとくかも知れず、それ相応のメジャーでもって測らなければ、そのワインの全体像は第三者に伝えることができないのではなかろうかと危惧したりするのだ。


 自然派のワインは、体に馴染む素朴な味わいなので、計測そのものが愚行という説もあるが、一部(というか今のところは大部分だが・・・)を除いて、美味しいワインには違いないので、天と地の恵みと人の英知を味わうためにも、それ相応のグラスでもって味わっていきたいと思ったりする。


 ということで、我が家にはリーデルのヴィノム・ブルゴーニュが30脚以上集まってしまった・・・。結構、置き場に困るし、洗うのも大変だったりするが、INAOグラスを100脚洗うのに比べれば、ちょっとラクチンかも知れない・・・。 



(注) ちまたでいうISOグラスやDOCグラスとは形状が微妙に異なるが、ここでは同義語として使いたい

おしまい


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