にっぽんハッピーワイン


 ハッピーワインとは? その2 泣けるワインの存在
 
 ハッピーワインが、「死」への忘却を意味するならば、一方で「死」と対峙するワインが存在することも意識しなければならない。そのワインを仮に「泣けるワイン」とするならば、そのワインの代表格にブルゴーニュの銘醸ワインを挙げることができる。ロマネ・コンティとモンラッシェを筆頭とする大山脈群のブルゴーニュは、単一ぶどう品種を原材料として造られることで知られ、単一品種であるにもかかわらず、無限のバリエーションと、日本人の繊細なうまみ文化に通じる世界観を持っているからだ。

 それらは時に、バッハやピカソなどの芸術作品と同様の扱いをされる。しかし他の芸術作品とは異なり、「泣けるワイン」は常に有限で、排他的な性格を持っており、極限られた人たちの鑑賞にしか堪えうることができない。それは、バッハには楽譜があり、コンサートホールに赴けば静かに鑑賞でき、またピカソは美術館に展示され、僅かばかりの入場料を支払えば、時価総額数百億円の絵画も簡単に鑑賞する事ができるが、「泣けるワイン」は、入手が極めて困難であり、異常なほど高値をつけ、しかも飲み方によって、その味わいを変えてくる厄介な芸術作品だからである。

 ブルゴーニュをして、官能主義と評し、そのワインを味わえば、そのうまみと酸味の絶妙のバランスゆえか、初恋のあの風景を思い起こしては、胸がきゅんと締め付けられ、呼吸も一瞬止まり、そして気づかぬうちに頬を涙が伝う。その涙こそ、「泣けるワイン」と表現した由縁である。ブルゴーニュを飲み、死んでもいいと思う瞬間がある。地球に刻まれた大地の唄と、この世にわが生を受けた奇跡に感謝し、大地の歴史よりもはるかに短い人間の生の儚さに直面した時、一杯のブルゴーニュを口にしては、感慨の名の下に、死を覚悟するのである。

 ムンクの代表作「思春期」は、少女から女性へと変わり行くその狭間にあって、忍び寄る死を意識させる名画であるが、裸でベッドに座る少女の膨らみ始めた乳房に頬を染める表情と、背後の影の暗黒さに、ブルゴーニュワインの官能的な味わいを重ねる時、つかの間の生の残酷さと、それを認めざるを得ない境地に達する。有限の死を認めることによって完成する官能の味わい。もしも仮に、無限の生が約束されているのなら、ブルゴーニュであっても、なんであっても、一杯のアルコール飲料と大差はなくなるはずである。

 勝沼のあるワイナリーの栽培担当者は、かつて私にこう言った。「ハッピーワインを造るのは、そんなに難しくないけれど、泣けるワインは、なかなか造れないんですよね。」日本のワイナリーの一部には、この「泣けるワイン」造りに挑戦するところもある。また、そういう芸術性を持ったワインではなく、日常生活に溶け込んだワイン、この章で言うところの「ハッピーワイン」に拘っているところもある。私はまだ、日本のワインで、「泣けるワイン」に出会ったことはない。しかし、数多くの「ハッピーワイン」とは出会うことができている。この事実は大変重要で、その存在を無視することは、日本人としてのアイデンティティにも関連してくることと思うに至っている。

 前述のバッハに少し戻る。そういえば、バッハの楽譜は不変でも、ホールの設備や指揮者の哲学や演奏者の技術と感情によって、その音は大いに変わってしまい、最高の音を求めるならば、その音を聞くためにのみ異国を訪問することもあると聞く。またピカソの絵画は、その独特の個性により、ある人にとっては、史上最高の感動をもたらし、またある人にとっては、ただの落書きに思えることだろう。天下のバッハやピカソをして、その評価は細分化され、その情報を共有することは難しい。

 ワインもまた、しかり。一本のボトルからは、物理的にも数人としか共有できず、別の誰かに伝えようとするならば、そこにはどうしても無理が生じ、その場に居合わせた人としかその感動を共有できない不自由さを認識するところである。しかし、「ハッピーワイン」にしても、「泣けるワイン」にしても、極少数の人たちとの不自由な情報の共有は、とても意義のあることである。

 なにやら話が長くなってしまった。

 ワインを日本で語る上での第一人者である麻井宇介は、ワインを、「味わって飲むワイン」と「飲めさえすればよいワイン」という二つのカテゴリーに分けたが(注)、ブルゴーニュ魂も氏の意見に大賛同し、その味わって飲むワインを、さらに二つのカタゴリーに分けてみたのである。

 「ハッピーワイン」と「泣けるワイン」とに。

 ワインがただ酔うためのお酒ではない、素敵な魅力があると信じる。最後に、私からの二つの質問を投げかけて、この章はひとまず終わりにしたい。


 「あなたは、ワインを飲んで、ハッピーになったことはありますか。」

 「あなたは、ワインを飲んで、泣いたことはありますか。」


つづく

2005/08/02

注 「ブドウ畑と食卓のあいだ」 麻井宇介 中公文庫 56ページ参照




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