ドメーヌを巡る冒険


 テーマ : プスドールBousse d'Or vs ブスドールPousse d'Or

 
 プスドールからの問題

 ヴォルネイに本拠地を置く、プスドールについて。フランスには、ドメーヌがひとつの畑からしかワインを造らない場合を除き、畑の名をドメーヌの名称に使うことはできないという法律があります。この法律によってドメーヌ・ド・ラ・プスドールはドメーヌ名を変更せずに、自らが単独所有すヴォルネイ・クロ・ドラ・プスドールVolnay Clos de la Pousse d'Orの畑名を、ブスドールClos de la Bousse d'Orに変更しました。ドメーヌ名ではなく、畑名を変更するところがちょっとニクイ。

 さて、ここで問題。プスドールが、畑名を変更した正確な理由は分かりませんが、そのうち、私が「なるほど」と思った歴史的事実はなんでしょうか。

 
 正解 : その畑は昔、Bousse d'Orという名前だったから(昔の名に戻っただけ)。

 由緒正しい伝統ある畑、Bousse d'Or ブスドールは、1913年、ブルゴーニュ公(註1)から数えて8代目(註2)の所有者にあたるド・シャヴィーニェとド・ラヴォレイユの両氏によって、新芽を意味するPousse に名称変更された。その理由は、Bousseという単語が意味が不可解であり、発音も困難であったためという。これは、原産地呼称統制法(AOC法)の成立以前(1935年)であったために、名称変更が許されたと推測できるだろう。そしてその後、この畑が世界中に知らしめることになる天才醸造家ジェラール・ポテルらのグループによって買収されたのが、1964年である。買収と時を同じくして、畑名は変更された。ドメーヌ名と畑名はその畑以外の畑を所有する限り同じにできないという法律の適用を余儀なくされたためである。この経緯には第三者の意志を感じるが、いずれにしてもその結果、Pousse d'Or プスドールの畑名は古の名であるBousse d'Orに変更(または復活)されたのだった。その間、およそ50年間あまり。この歳月はド・シャヴィーニェとド・ラヴォレイユの両氏が畑を所有していた時期とそっくり重なるのだった。

 ちなみにBousse d'Or ブスドールの名称は過去にブースになったり、ブッシュになったり、いろいろ変更されたようだが、1860年代の資料で現在の名前が確認されている。もちろん当時もモノポールであった。

 一方、法人としてのドメーヌ・ド・ラ・プスドールPousse d'Orは1954年に設立されている。設立後ドメーヌ・ド・ラ・プスドールは発展を続け、ヴォルネイやポマール、サントネイの銘醸畑を買い増していくことになった。名称変更の10年前であり、10年間は、DRCやランブレイと同様、ひとつの畑名と同じ名称のドメーヌがあったわけである。なぜ畑名の変更が、設立と同時、または別の畑を買いました瞬間ではなく、10年後のオーナー変更の時期だったのだろう。私は、当時の証拠となる資料は持ち合わせていないので、あくまでも推測の域は脱しないが、買収合戦に敗れた一方による怨念の匂いがするのはあながち気のせいでもないだろう。いずれにしても、ドメーヌ・ド・ラ・プスドールは、法律の適用を受け入れ、畑名をBousse d'Or ブスドールに変更したのだった。

 この変更をドメーヌとして受け入れたのにも謎は、残る。なぜ例外の多いこの法律に従ったのだろう。そこに何かしらの抵抗はなかったのだろうか。私はあったとみている。ドメーヌ名ではなく、畑名を変更したというのもひとつにあるが、なにより実際にヴォルネイ村を訪ねてみると、意外な看板を目にすることになるからだ。それは・・・、ドメーヌの近くにあるClos de la Bousse d'Orの畑の石垣には、今もなお、堂々と「CLOS DE LA POUSSE D'OR」と、ドメーヌと同じ名前の石製の看板があるのだ。この看板は、交通量の激しい道沿いにため、立ち止まる人も少ないが、当時のドメーヌの抵抗を物語るようで、興味深い石碑だったりもする。

 ドメーヌのその後については、また別の機会にでも・・・。

CLOS DE LA POUSSE D'OR


 
(註1) ブルゴーニュ公が所有していたのは1477年まで。
(註2) プスドールの屋敷の所有者は、フランス革命以降現在の所有者パトリック・ランダンジェ氏で13代目である。


以上

 参考資料
 2003/03/11



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