11月26日(水曜日) シャンパーニュへの巻

 朝は7時すぎに目が覚めた。辺りはまだ暗く、寒かったが、僕は駅へと歩き出していた。今日は これからパリヘ向かうのだ。しかも始めてのTGVに乗って。

 TGVは全席指定で、事前の予約が必要だった。僕はチケット売り場でユーレールパスを差し 出し、「ボンジュール I wanna get on TGV to Paris シルブプレ」 と言うと、駅員はにっこり微笑んでチケットを発行してくれた。ちゃんと通じているし、何やら スピーディーにことが運ぶと、嬉しくなってくる。この調子でパリに上洛だ。

 TGVは一般の電車と同じ軌道を走る。新幹線とはそこが違っている。僕が乗ったTGVはまさに 朝の通勤電車のようで、ビジネスマンに囲まれての「出勤」となってしまった。2時間半くらい 揺られていたのだろうか。電車はリヨン駅に到着した。

 パリにはパリ駅はなく、7つの駅がフランス各地と連絡している。日本で言えば、東海道線は 東京駅に、東横線は渋谷駅に、小田急線は新宿駅に、といった感じだ。主要駅は地下鉄で結ばれて おり、始めての人はこの地下鉄に惑わされる。地下鉄のホームには駅名のみ表示されていて、この ホームがどちら行きの電車が来るのか良く分からない。注意して見ればちゃんと書いてあるのだが、 その表示は小さく、慣れるまでは電車が次の駅に着くまで心配だったりする。日本では駅名が3つ 表示されていて、例えば京都の烏丸線ならば、四条−五条−>京都となっている。どちら行きの電車 かが矢印などで表示され、下手をすれば待ち時間まで教えてくれたりする。ところがパリではその 駅名のみが表示されているので、ぱっと見ただけでは右に行くのか左に行くのか分からない。終点の 駅名は電車に表示されているし、ホームに着く前までに駅の壁に行き先は表示されている。注意深く 見れば分かるはずだった。しかしなにぶん不慣れで、しかもフランス語圏ということで緊張してしまう のだった。

 僕はパリは2度目だったが、それでも8年振りなので緊張していた。路線図で乗換え駅を確認して、 パリ西駅に向かうことにした。西駅からはシャンパーニュ地方行きの電車が出ているはずだった。

 リヨン駅の改札に立つと、僕のいたずら心が顔を出した。なぜだか急に自分の運勢を試したくなって きた。リヨン駅に滑り込んだ電車に僕は行き先を確認せずに乗った。時間はあるし、間違えたら逆向き に乗り直せば良い。そんな気楽な気持ちで乗ると、その電車が正解だった事が次の駅ではっきりした。 乗換え駅でも行き先を確かめずに乗った。また正解。僕はあてずっぼうに乗った電車で無事西駅に到着 した。確率二分の一を2回もパスしたことで、僕の運のよさは確かなものとなった。

 駅でシャンパーニュ行きの電車を確認する。僕の持っている情報はイタリアしかなく、フランスの 情報は出発前にガイドブックで調べ、トーマスクックの時刻表の路線図に印を付けただけのものしか なかった。事前の情報によれば最寄り駅はエペルネイだった。案内所で聞くと、確かにその駅で間違い なかった。親切に時間まで教えられ、次の電車まで約3時間あることが分かった。その3時間で何を しようか。地下鉄の乗車券カルネは余分に買ってある。僕はもらったパリの地図を広げ、主だった 観光地を探した。オルセー美術館が目に留まった。というより、そこを探していた。オルセーは学生 時代にも行っていたが、駅を改造した美術館の印象が忘れられず、もう一度訪ねたい場所の一つ だった。地図で見ると西駅から一本で行けそうだった。サンミッシェル駅でおりて少し歩けば良さそう だ。サンミッシェルといえばパリの下町だ。下町の散策も悪くないだろう。僕は今度はちゃんと行き先 を確かめた上で地下鉄に乗った。

 サンミッシェル駅は原宿の表参道のようなところにあった。オープンカフェのお店が並び、近くに セーヌ川がゆっくりと流れている。僕はすでに一人で食事をする勇気を持っていたので、早速ここで 試そうかと思ったが、目の前にでんと構えるノートルダム寺院を見てしまったからには、そこに行か なければならない衝動に駆られて、食事は先送りした。ノートルダムは始めてだった。二本の四角が 天空を指している。その余りにも有名な寺院を目の前にして、ここがパリであることを認識した。学生 時代は時間の関係で来れなかったところでもあり、8年後にようやく到着できた喜びも沸いて来た。

 寺院の内部も開放されており、ステンドグラスの美しさにしばらく見とれていたりした。僕は予定外 の大物観光地に、地下鉄での運だめしの成果が現われていることを確認した。ノートルダムからは セーヌ川沿いに歩けばオルセーがあるはずだった。僕は歩き出したが、これが結構距離があってかなり 歩かされた。朝食はディジョン駅でのカフェとクロワッサンだけだったので、空腹に耐えながら オルセーを目指すことになってしまった。

 ようやく辿りついたオルセーはでかかった。入り口で荷物の中身をチェックされ、X線を通す。 アーミーナイフが反応するかと思ったが、特に何もなかった。無事入場した僕は、真っ先にミレーの 「落穂拾い」を探した。美術の教科書で有名なこの絵は8年前と同じ場所にあった。月日は流れても 絵は同じ場所で訪れる人を待ち続けているのだ。そんな当たり前の事に感動した僕は急ぎ足で館内を 回った。電車の時間があったからだ。本来ならば一日かけてゆっくり回るべき美術館だが、シャンパン が僕を待っているのかと思うと、ノンベイの僕は居ても立ってもいられなかったのだ。

 絵よりも酒が大事だった。最後の晩餐を5分で出る人をあれほどこき下ろしたくせに、自分の都合で かくも簡単に主張を曲げてはいかんと思いつつ、僕はシャンパンの泡立ちを想像して、ほくそ笑んで しまうわけだ。

 ところで、オルセーには彫刻を写生する学生たちがたくさんいた。地べたに座り込み、熱心に写し とっている。僕は彫刻については無知だったが、女性についてはスケベだった。彫刻を見る振りを しながら、フランスの女学生ばかり見ていた。ちょっとでも胸が開いているようなシャツでも着てよう ものなら釘付けだった。ただ生憎今は晩秋だったのでそんな女学生はほとんど居なかった。今度は夏に こようと思った。

 オルセーのトイレで用をたして、僕は地下鉄に乗り込んだ。美術館の目の前が地下鉄の駅だった。 パリの地下鉄にもいろいろあってこの路線は種類が違うらしく、2階建てだった。一駅目に先ほどの サンミッシェル駅があり、そこで乗り換えて、西駅に向かった。電車の時間まで少し時間があった ので、駅のレストランで食事をとった。始めてのレストランだった。フランス語のメニューは読めない ので、柱に張ってある今日のお勧めメニューにした。どうせ駅の食事だし、たいしたことないだろうと 高を括っていたが、ところがどっこい大変美味しいではないか。サラダの上に置かれたパンにハムと チーズを合わせた料理で、これがまたビールに良く合うこと。値段はビール付きで39フランだったと 思う。

 初めての一人での食事に成功した僕は、喜び勇んでストラスプール行きの電車に乗り込んだ。目的 地は一つ目のエペルネイ。約1時間半の旅だった。車内では乗車券の確認があり、僕の発音が不十分 だったのか、目的地を告げるのに一苦労した。

 エペルネイの駅は閑散としていた。地図もなしに街を歩くと、案内所こっちの表示があった。その 指示に従うと、ちゃんと案内所に到着した。確実に運が向いてきている。その案内所は、モエ・エ・ シャンドン社の目の前にあった。目的の会社がそこにあるのに観光案内所で聞くのもどうかと 思ったが、とにかく入ってみた。市内の地図を貰い、シャンパーニュの見学を申し出ると、何と、 モエ・エ・シャンドン社の見学は冬季閉鎖でできないとのこと。がが−ん。

 ガイドブックでは平日ならば毎日見学できると書いてあったはずなのに。しかし、やっていないもの は致し方ない。

 動揺する僕に案内所の女性は、親切にほかの会社の見学コースを教えてくれた。幾つかの会社で 見学ができるという。またシャンパンが安い店も教えてくれた。僕は礼を言い地図を頼りにそれらの 会社を回ることにした。

 観光案内所を出て左斜めを見ると、モエ・エ・シャンドン社は金色に自社の看板を掲げていた。 そして敷地の隅っこにドンペリニヨンの銅像が建っていた。ドンペリと言えば、その名はロマネ コンティよりも有名かもしれない。F1の表彰台で飲まれることでも知られているし、シャンパンの 代名詞になっていたりする。このドン・ペリニヨンはシャンパンの改良に貢献した人で、コルクや瓶を 使い始めたのがこの僧侶らしい。盲目だったという説を否定するかのようにこの銅像の目は開いて いる。

 モエ・エ・シャンドン社はまさしく会社だった。全世界で2秒に1本この会社のシャンパンが 開けられていると言われるだけのことはある。東京の丸の内にあってもおかしくない近代的な立派な ビルだった。さすが、ルイヴィトンとエルメスと同じ経営だけの事はある。僕はせっかくここまで 来て見学できない状況に、地団駄を踏みながら指をくわえてドンペリ像を眺めていた。

 市内の地図によるとここから先がシャンパンアベニューなる通りらしい。なるほどシャンパンの 会社がずらりと並んでいる。僕は一番奥にある会社から回ることにして、緩やかな坂を上り出した。

 MERCIERという会社が奥に構えていた。メルシエと読むのだろうか。会社の前は かなりの駐車場があり、他のシャンパンハウスとは規模が違うようだった。団体客がバスで見学にくる ようなところかもしれない。玄関を入ると大きな樽が僕を歓迎してくれた。樽の横にはクリスマス ツリー。従業員が楽しそうに飾り付けをしていた。

 見学コースは英語とフランス語があり、僕は一応英語クラスを選んでみた。一足先に地元高校生たち がフランス語コースにどやどやと進んでいった。さすがシーズンオフだけあって見学者は多くない。 英語コースには8人くらい集まっており、平均年齢はかなり高そうだ。見学コースの初めは、世紀の 出来事とシャンパンの関わりについてのビデオ紹介。蒸気機関車から月面着陸などの映像の合間に シャンパンのコマーシャルフィルムが写される。映画館でみるコマーシャルのような感じだ。おそらく 前の高校生グループとの時間調整に使われているのだろう。

 ビデオが終り、次の間に案内される。ここからはエレベーターで降りるらしい。ガイドの女性が 説明を開始するのと同時に、エレベーターの外が明るくなった。このエレベーターはガラス張りで外の 仕掛けが見られるようになっていた。気球に乗った少年たちがライトアップされ、その下にはブドウ 畑が広がっている。エレベーターが徐々に高度を下げ地面に近付いて行く。光の調整で昼と夜を演出 し、あたかも実際のこの村の風景を思わせようとしていた。そして地面の下の蔵ではワイン造りが 行われていて、人形が出来立てのワインのテイステイングなどしている。

 エレベーターの粋というか何というかの演出が終わると、ジェットコースターのような乗り物が 用意されていた。どうやらこれに乗って館内を見学するらしい。あたかもディズニーランドのカリブの 海賊だ。

 フランスなまりの英語の説明が再び始まり、カリブ号は動き出した。館内は巨大な蔵になっており、 碁盤目状に掘られたトンネルの壁にそってシャンパンが保管され、熟成を待っている様子だった。 トランプでピラミッドを作る時のように、2枚の板が「へ」の字型に掛けられ、その板に横6列縦 10列にシャンパンが、ロを下向きにして差し込まれていた。その数の多いこと。さすがに庶民派の シャンパンだ。この蔵には何百万本ものシャンパンがその出荷を待っているのだろうか。僕はその量に 大変驚かされた。冷やりする館内をカリブ号はゆっくりと進んでいく。ガイドの女性がシャンパンの できる過程を説明して、乗客がいちいち納得していた。

 僕はこの見学コースに擬似体験の思い出を探していた。そういえは、青函トンネルの見学コースに 似ている。トンネル工事の様子や道具類の展示の代わりにシャンパンがある。そんな印象を瓶の底を 見つめながら思っていた。寒い館内は、青森県龍飛岬でのデートを思い出させた。

 僕はシャンパンの製造過程については日本で勉強していたので、ガイドの英語が理解できなくても 大体は理解できた。というよりも、この蔵の説明は不要だった。もっと静かに見学できたらと思う。 車はゆっくりではあるが確実に動いてしまう。おやっと思ってみても通り過ぎてしまって引き返せ ない。ただ本で調べた蔵の確認だけに終わってしまっていることに気が付くと、自由のきかない団体 見学ツアーの限界を思い知ったのでした。

 カリブ号がゆっくりと停車場に着いた。ぞろぞろと降りるアメリカ人たちの後ろに付いて歩くと、 シャンパン作りの過程が写真で紹介されていた。その写真をゆっくり見る暇もなくガイドは僕たちを テイスティングルームに案内した。

 日本でいえば、サッポロビール習志野工場の見学後に一杯のビールが飲めるのと同じで、フルート グラスに注がれたシャンパンは、きめの細かい泡を作りながら僕の帰りを待ってくれていた。やはり シャンパンはうまい。通に言わせるとシャンパーニュというそうだが、とにかくシャンパーニ地方で この酒を飲める幸せが、僕を包み込んでいた。

 ガイドさんとの記念撮影を終えると見学コースも終了した。出口手前にはお約束通り自社の シャンパンが販売されている。大小様々のパッケージに飾られて、多くの人がお土産に何かしらを 買っていた。ただ僕はボルドーワインの購入に主眼を置いていたし、モエ・エ・シャンドン社以外の シャンパンハウスには今一つ興味が持てなかったので、町に出てモエ社のドンペリか ブリュットアンペリアルでも買おうかと思っていた。これは後日談だが、このメルシエ社はモエ社の 傘下に入っていて、経営は同じらしい。

 ほろ酔い気分で外に出ると、高校生がバスに乗り込んで帰るところだった。彼らの横を擦り抜けて シャンパンアベニューを駅方面に戻った。この見学でかなり時間が掛かって、早くしないと帰りの 電車に間に合わなくなりそうだった。今晩はパリに宿を探す予定だったので、余り遅くなると厄介 だった。他のシャンパンハウスの見学は省略して酒屋さんを探した。案内所で教えられた酒屋さんに 行くと、そこにはドンペリはなかった。

 よく考えれば当たり前だった。その酒屋もシャンパンを自社で作っており、見学コースこそないが ちゃんとしたシャンパンハウスだったのだ。秋田の高清水酒蔵で飛良泉は売っていないのと同じ 理屈だ。他社商品は自社の直営店で売らないのだ。

 名も知らぬシャンパンをわざわざ買うこともなかろう。シャンパンはボルドーやブルゴーニュと 比べても安いので、日本で買うのと価格差が余りない。僕に歩み寄る店員の注意を逸らしながら、僕は その店から脱出した。

 駅でパリ行きの電車を待つ間、僕はシャンパンを飲んだ。注文の時にシャンペンと言ってしまい 日本人丸出しを演じている自分を笑ってしまったが。

 電車の中で今後の予定を立てた。明日はボルドーへ行こう。パリのモンパルナス駅からボルドーへは TGVで約3時間。7時30分に乗れば11時前にボルドーに着く。となると、朝が早いのでモン パルナス周辺に宿を取れば良さそうだ。ボルドーでは毎日午後にシャトーツアーがあるらしく、ブドウ 畑の見学ができる。などと時刻表を見ながら検討した。とりあえず、フランス語でホテルの予約が できない僕は、実際にモンパルナス駅に向かうことにした。パリ西駅に夕方6時についた僕はモン パルナスに行くべく地下鉄に乗った。途中サンミッシェル駅を通過し、ここに宿を取るのもお洒落か なと考えていると電車は目的地に着いた。

 このモンパルナス駅はでかかった。ミラノ中央駅もでかかったが、この駅は何層にもなっていて別の 意味で圧倒された。地下鉄から国鉄に乗り換えるのに5分以上かかる。日本で言えば、東西線の大手町 から東京駅に抜けるような広さだった。

 国鉄の窓口で明日のTGVの予約をして、僕はホテルを探すことにした。

 モンパルナスの駅前にパリには似つかわしくない高層ビルがある。西駅周辺の雑多な雰囲気とは全く 別物だった。駅近くの二つ星ホテルで交渉開始。部屋は空いていると言う。しかし、値段が高い。前日 のディジョンの倍ちかい。1泊で8000円以上もする。これでは東京のビジネスホテルと変わりが ない。一日の宿泊代は5000円前後と決めていた僕は、この金額はこれからの旅を考えると受け入れ られるものではなかった。大学時代にパリにきたときは、全泊ユースホステルだったので、パリの ホテル事情はつかめていなかった。二つ星でこの金額ならば、一つ星に落とさなければならない だろう。

 僕は残念ながらそのホテルを出ざるを得なかった。この駅周辺には二つ星以上のホテルしか見当たら ず、仕方なく駅裏のほうへ宿を求めて歩き出した。ところが駅から離れるに連れてどんどん寂しく なっていく。そして夜も更けていく。寒さも増してくる。僕は適当なホテルがないまま無駄に歩き続け た。目の前にはいつしかMの看板があった。地下鉄メトロの表示だ。僕はここでの宿さがしを断念、 サンミッシェルに場所の変更をした。

 サンミッシェルに降りると、そこは繁華街だった。手頃なホテルもたくさんありそうだ。僕は少し 気力が復活して街を歩き出した。下町らしく活気があり、賑やかな町並みだった。ところが、部屋が ない。シングルベッドはほぼ満室状態で、幾つものホテルを当たるが全て断られてしまった。何件目 かでようやく空室を見付けるがホテル代がモンパルナスよりもさらに高かった。日本円で1万円 くらい。8000円を断って1万円には泊まれない。ここらに安いホテルはないかと受付の女性に 尋ねるも、ないとの返事。ここら辺はパリの中心街だから、需要と供給のバランスが高めに振られて いるのだ。この場所での宿泊も断念しなければならなくなった。

 駅に戻るとオープンカフェで食事をする人達が目に入った。ここはひとつ、飯でも食うか。晩飯 食って気分転換だ。一人での食事はすでに昼間の西駅で経験済みで、僕は常連風を吹かせてお洒落な カフェに入った。しかし、今度は夜だったので、テーブルには蝋燭が点されていた。少しその火に 戸惑いながらもメニューを見た。サラダしか読めなかった。仕方なくミックスを頼み、赤ワインを注文 した。ワインを飲んで料理を待っている僕は、ついに蝋燭つきのテーブルも征服できた喜びを噛み締め ていた。ホテルの心配もこのときばかりは消え失せ、パリの夜を大いに楽しむことができた。この手の 店も入るまでは抵抗があるが、いざ入ってしまえばこっちのもののようである。

 野菜ばかりの食事を終えて、ホテルの心配が再登場してきた。時間は8時すぎ。ここからモンパル ナス周辺に戻ってホテルを探すとなると9時になってしまう。一度チェックインしてしまったら、一日 の疲れが出て、そのまま寝てしまう可能性がある。今夜パリの夜景を楽しまなかったら、今度いつ来れ るか分からない。今回の旅ではパリに戻る予定は立てていない。ホテル探しは9時も11時も同じ こと。最悪は駅に泊まればいいし、夜行電車に乗ってもいい。TGVの予約料は400円そこそこ だから、無駄になっても諦めも付く。僕はホテル探しを止めてパリの夜を楽しむほうを選んでしま った。

 サンミッシェルからセーヌを越えて左に行けば、ルーブル美術館につくはずだ。僕はパリの夜景に 誘われるまま、歩き出した。目的地を凱旋門に定め、そこまで歩いて見ようと考えた。だから地下鉄は 無視してしまった。地下鉄に乗ってあっというまに見ても楽しくない。旅の基本は歩くことだ。僕は 決心して徒歩で凱旋門を目指した。失敗だった。地図で見れば僅かの距離でも実際歩くとなると、相当 の距離があった。しかし一度歩き出したら止まらなかった。日本ではほとんど歩きもしないのに、どう して異国では歩けるのだろうか。不思議な感覚だった。

 ルーブルは悲しいくらい遠かった。ようやく辿り着いたルーブルは、夜も更けたというのに、入り口 のピラミッドには人が出入りしている。一体何時までやっているのだろうか。中の様子に興味もあった が、遠くに凱旋門があり、そちらを急ぐことにした。ルーブルは学生時代に見ている。今回はパス しよう。ルーブルから一直線上に凱旋門があり、その手前がいわゆるシャンゼリゼだ。左斜め前方には エッフェル塔が輝いている。

 このまま一直線に進もうとした僕に工事の網が邪魔をした。その工事現場を右か左から回り込まな ければ前に進めなかった。僕は左を選びセーヌ川沿いに歩を進めた。セーヌの流れにパリの灯が反射 している。美しい。僕は川岸に降りたくなった。川は側で見ると汚く、臭みのある匂いも感じられた。 僕はしばらくは川に沿って歩いてみたが、特になにもないので、道路に戻ろうと思った。ちょっとした 寄り道だ。しかし、道路への出入り口は500メートル間隔でしかなく、道路に通じるトンネル周辺に は黒人系の若者が5人ばかりたむろしている。彼等の待つトンネルを通らなければ、道路に戻れない。 僕は困った。見るからに危なそうな人達だったからだ。このまま一人で歩いていたら襲われると直感し た。今回の旅は生きて帰る事が最大の目的であり、その目的に黄色信号が点滅していた。何でこんな ところにきてしまったんだろう。後悔先に立たずで、彼らはすぐそこにいる。僕の狼狽はこの旅で、 最高潮に達していた。この危険極まりない状況を打破するためには逃げるのが良さそうだ。しかし、 戻るにしても500メートルはある。僕は疲れていた。できれば後退はしたくなかった。この先の 出入り口に行くにも、彼等の前は通らなければならない。僕は自分の疲れ具合を体に聞いた。へと へとだった。

 僕は絶望の中で彼らと目を合わせないように、水面などを見る振りをして時間を稼いだ。するとそこ ヘビジネスマンがやってきた。コートの襟を立てて勇ましい姿だ。僕は彼の後について歩けば、脱出 できると思い、紳士の後に食い付くように歩いた。紳士が黒人衆の間を抜け、僕がすぐに続いた。トン ネルの中は真っ暗で、祈るような気持ちで息を止めて歩いた。ここで走ったら逆に追い掛けられる 可能性がある。たった5メートル歩くのにも、それは時間にしたら僅かかもしれない。しかし僕には とんでもない長さに感じられた。道路に出たときの喜び様は表現し切れない。空気の旨いこと、旨い こと。僕の背後に彼らの影が消えたとき、僕の目は潤んでいたかもしれない。この体験は教訓として 刻み込もう。

 ほっ。

 気を取り直して歩き出した僕は、凱旋門を目指した。街道の木々にイルミネーションが目に美しく、 僕はやっとこさシャンゼリゼに到着した。しかし、このシャンゼリゼ、行かれた方は分かると思うが、 凱旋門に向かってかなりの上り坂なのだ。僕は冬なのに汗だくになって、息を切らし歩き続けた。 オーシャンゼリゼ・オーシャンゼリゼと口ずさみながら、何がそうさせるのかしらないが僕は歩いた。 華やかなパリの賑わいは、僕に水分の補給を促した。バッグには瓶のままのワインが1本だけあった が、そんなものこんな町中で開けてもしょうがない。水もなく、自動販売機もなかった。僕の遠い思い 出によれば、もう少しいったところにマクドナルドがあったはずだ。そこで休憩しよう。

 しかし目当ての店はなかなか現れなかった。僕は、最後の力を振り絞り歩いた。

 あった。

 ようやく休憩できる。コーラを一気に飲み干し、ハンバーガーを齧った。宿もなく、何でこんなに 無理してまで歩くのだろうか。おそらく、ここがパリだからだろう。それ以外にこんなに歩けるはずは ない。もしフランスのサラリーマンの給村日も25日が多いのなら、今夜は給料が入ったばかりだ。 心なしか人々の顔に笑いが見られる。パリジェンヌの笑顔に、僕の体は癒されていったのだった。喉の 乾きも解消され、彼女らの笑顔に励まされ、僕は再び凱旋門へと歩き出した。

 凱旋門はでかい。そして何度見ても飽きない。パリの象徴だと思った。ここで、ハタっと思った。 パリの代名詞はもうひとつある。そう。エッフェル塔だ。僕は自分の疲れも無視して、エッフェル塔を 目指してしまっていた。片手落ちは良くない。エッフェル塔の真下に行かずしてパリを語るなかれだ。

 ところがこの凱旋門からエッフェル塔も遠かった。シャンゼリゼから一つ道を違えただけで、急に 閑静な町並みになる。僕は人気のない街道を歩かなければならなかった。疲れた足を引き摺るように して、僕は歩いた。この距離は阿呆でなければ歩けないと思った。

 そしてようやくすぐ近くまで辿り着いた。

 エッフェル塔は電飾で飾られている。

 764という数字が闇夜に浮かび上がっている。おそらく西暦2000年までのカウントダウンなの だろう。真下まではあと少しだ。ところがその時ちょうど雨が降ってきた。この雨は宿無しの僕には 堪えた。宿もなく異国の街で、震えながら朝が明けるのを待つ自分を想像すると、これはさすがに惨め だった。時間も10時を過ぎている。夕食から2時間も歩いていることになる。我ながら良く歩いた ものだ。

 この雨がエッフェル塔を断念させた。恵みの雨だとこの足が喜んでいる。

 僕は地下鉄の駅に戻った。路線図を見るとこの駅からモンパルナスヘは1本で行ける。モンパルナス 周辺には適当なホテルがないことから、僕は一つ手前の駅で降りることにした。大抵の駅には一つや 二つホテルがあるものだ。

 案の定駅を出るとホテルが二つあった。一つ目のホテルではあっさり満室と言われ、一瞬足が 震えたが、そこの主人に隣を紹介してもらい、何とかチェックインできた。宿代は350フラン だった。日本円にして8000円弱。ここも高いが、他のホテルに比べると50フランほど安かった。 どうにか宿が確保できたが、現金の持ち合わせがお互いになかった。どういう事かというと、僕は 400フラン分のトラベラーズチェックしかなく、受付には50フランの現金がなかった。

 そこで折衷案として、今チェック400フランをノーサインで支払い、翌朝50フランのおつりを 貰うことにして、チェックへのサインはその時にすることで合意した。宿が正式に決まると喉の乾きを 思い出す。ヨーロッパでは水道の水は飲めないので、常に枕元にミネラルウォーター類を用意して置く 必要があった。僕は外に出て店を探したが、時間も遅くどこも閉まっていた。そこで仕方なく、カルネ 1枚で駅に入場して、そこの自動販売機でコーラを買うことにした。入場券がもったいなかったが、 明日パリを離れるので、ここで使ってしまっても特に問題はなさそうだった。

 ホテルに戻ると受付でもジュースを売っていることが分かり、少し狼狽したが、先ほどのセーヌでの それに比べると笑って済ませられる程度だった。エレベーターで自分の部屋に上がり、窓から外を 眺めると、エッフェル塔が真っ正面に見え、何の障害物もないその光景は、僕の心に深く刻まれたの だった。

 今日の教訓

 その1 夜のセーヌは危険地帯。

 その2 パリのホテル代は地方の倍。

 その3 一人での食事もおいしいぞ。

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