11月27日(木曜日) シャトー・ムートン・ロートシルトの巻

 前夜は疲れ過ぎていたせいかなかなか寝付けず、深夜まで映画など見て過ごしていた。起床時間 7時少し前。僕は焦った。電車の時間が7時半だったからだ。慌てて着替えた。着替えると言う のは正確ではない。裸で寝ていたので単に着たと言う方が正しいか。

 電車の時間がない。モンパルナス駅の巨大さを考えると一刻の猶予もなかった。そういうときに 限って便意を感じるもので、僕はトイレに駆け込んだ。裸で寝たのがいけなかったのか、下痢だっ た。しかも焦っていた余り途中で拭き取り作業を開始したために、べったりだった。さらに不幸 は続き、拭けども拭けども拭き取り作業は完了しなかった。

 僕は服を脱ぎ捨て、隣のシャワー室に入り込んだ。そしてシャワーでしばらく患部を洗い流した。 バスタオルで尻全体を拭き、僕は忘れ物だけを注意しながら、服を取り纏めた。 かけ降りる ように受付に向かった。とにかく時間が無い。乗り遅れた場合は次の電車まで1時間待たねばな らず、ボルドーでのシャトーツアーの時間に間に合いそうもなかったからだ。今日一日が無駄に なるかも知れず、何としても電車に乗りたいところだった。

 ところが、受付はもぬけの殻でだれも居ない。僕の50フランを返してくれと思わず叫ぶ。日本 円でたかが1100円だ。締めるか。しかしその50フランで昼御飯が食べられる。僕はジタバ タしながら大いに悩んだ。すると僕の騒ぎを2階に居たお客が気付いて、従業員を呼んでくれた。 朝からなんの騒ぎだという顔付きのオヤジに向かって、キーを返し、50フランと連呼する。オ ヤジは分っているから大きな声を出すなと言わんばかりにおつりを差し出した。僕はそれを受け とると一目散に走り出した。幸い駅は目の前にあり、電車もすぐに来た。時計を見るとどうにか 間に合いそうだ。しかし最後の砦はモンパルナス駅だ。動く歩道を幾つか乗り継がなくてはなら ない。しかも地下鉄から国鉄まではビルでいえば5階くらいの標高差がある。まだ油断はできな かった。

 通勤客をかわしながら動く歩道を走った。動く歩道はことのほか長い道だった。逆走していた場 合、かなりのロスになりそうだ。嫌な予感がした。国鉄の案内が見当たらない。僕は後ろを振り 向いた。国鉄乗り場への表示があった。やっぱり道を間違えていた。急いで終点まで走り、動く 歩道を逆向きに乗換え、さらに走った。突き当たりのエスカレーターも走って駆け上った。そし て最後の階段を走り抜けると、電車が見えた。

 セーフだった。乗車5分前。僕は冷たいパリの空気を思い切り吸い込んだ。僕が乗ってしばらく するとTGVはなんの前触れもなく動き出すのであった。まずは良かった。 ひとまず胸を撫で下ろしたりして過ごすことにしよう。TGVは田園の中を高速で南下して行く。 快適な車内での3時間はあっという間に過ぎていった。

 ボルドーは大都市だった。ボルドーはガロンヌ川に面し、ジロンヌ河をへて大西洋へ船で自由に 行き来できる。本屋での立ち読み情報によれば、ブルゴーニュワインがパリの貴族に愛され、ボ ルドーワインはその立地条件からイギリスの貴族に親しまれたという。大西洋への玄関ロであり、 貿易が盛んであった歴史が、この街にくると肌で感じられた。

 ワインの産地からして田舎の地方都市を想像していたが、実際こうして訪ねてみるとその広さに 圧倒された。駅で貰った地図を便りに市内の中心部に歩いてみたが、かなり時間がかかった。歩 くには少しばかり遠い。

 教会やオペラハウスが集まった中心地に観光案内所がある。僕は小綺麗な案内所で情報を集める ことにした。係員の話によると、観光ツアーは毎日10時からやっていると言う。えっ。今は 12時前、すでに終わっているではないか。せっかく早起きしてダッシュしたのに、それはない よな。今日一日この街で何をして過ごせばいいのだろうか。何も思いあたらないぞ。そこで、午 後の部はないのか尋ねると午前10時から12時までしかやっていないと言う。2時間で果たし てブドウ畑の往復ができるのか不思議だった。しかもウォーキングとか何とか言っている。こん な町中で歩いてブドウ畑に行けるとは思えなかったので、しつこく質問した。良く聞くと、どう やら市内の教会やらを歩いて回るツアーのことらしい。僕の勘違いだった。この街の教会や博物 館には全く興味がなかった僕は、市内観光があること自体想定していなく、ツアーと言えば、 シャトーツアーしかないと思っていたのである。改めてシャトーツアーを申し込むと、道路を挟 んだメゾン・ド・ヴァンで受け付けているという。僕は大いに安心して、道を渡ってさらに小綺 麗な店内に入っていった。受付には二人の女性がいて、丁寧に応対してくれた。

 ところが、今はオフシーズンだからシャトーツアーは週に2回しかやっていないという。水曜日 と土曜日だけ。今日が何曜日か分からなかった僕は、今日の曜日を尋ねた。木曜日だという。あ と2日もある。2日もここで何しよう。2日間の足留めはきついが、まだ奥の手はあった。 僕にはポイヤック村のムートン美術館の見学計画があった。僕がその美術館について聞くと、メ ドック地区の案内図をくれた。ただし、事前の電話予約が必要という。フランス語での予約は苦 手だった。とにかく、近くまで行こう。現地で地元の人に電話してもらえば何とかなるだろう。

 僕は昼食を取りながら、今後の予定を立てた。メニューはミックスサラダとワインとビールだった。 ワインはドレッシングに合わせて白を持って来てくれた。それにしてもサラダ以外注文できてい ないぞ。

 とりあえず、バスでポイヤックを往復して、夜は夜行でマドリードでも行って、土曜日に戻って くればいいか。とにもかくにもポイヤックに行ってからいろいろ考えようという、計画が纏まっ た。アバウトすぎる。

 ワインに頬染めながら、バス停まで歩く。教えられたところにバスは止まっていなく、路上駐車 中のバスの運転手に僕は近寄った。しかし、その運転手の態度が著しく横柄だった。僕はただ ポイヤック行きのバス停を教えて貰えればよかったのだが、彼は今にも唾を吐き捨てようかとい う態度をとった。僕が、何やこのオッサンと憤慨していると、乗客の女性が僕にバス停を教えて くれた。パス停は目の前の広場全体がそうだった。

 僕は喧嘩を売られたようで気持ちが治まらなかった。しかしここは日本ではない。少し落ち着く べきだ。僕は冷静にこの状況を把握しようとした。そして僕の結論はこうだった。まず、路上駐 車のバスは実はそこが正規のバス停であり、路上駐車同然なのにポイヤック行きのバス会社がこ んなに広い駐車スペースを確保していることへの嫉妬。僕がきいた運転手はポイヤック行きのバ ス会社とはライバル会社であり、敵対していること。運転手自身もポイヤック以外地区、例えば、 サンジュリアンとか、グラーブなどの出身者であるらしいこと。これらの理由が思い浮かんだ。 商売敵への質問が、彼の自尊心を揺さぶってしまったのだろう。そう考えると、単なる観光客の 初歩的な質問にも、態度を露にしてしまう了見の狭さに、僕は同情こそすれ、怒りの感情はどこ かに消えてしまったのだ。僕も大人になったものだ。

 バスの案内板によると、次のバスは14時発だった。何と1時間半以上もある。これでは往復す るだけで日が暮れてしまう。しかし、このままこの街に止まっても映画くらいしかやる事がない のだからと、バスを待つことにした。こういう待ち時間のために文庫があるのだ。僕は「坊っち ゃん」を取り出して、読み始めた。この名作も読み始めると止まらなくなる。僕は完全に登場人 物になりきってしまった。川からの心地好い風にページを捲られつつ読む夏目漱石。公園と隣り 合わせのバス停でゆっくり読書するのも悪くない。

 バスが来たようだ。運転手に場所を告げ料金を払う。ポイヤックで降ろしてもらうために、運転 手の真後ろの席に座った。どうやらここから1時間くらいかかるらしい。バスから眺めるボル ドーの街は、正しく都会だった。しばらくは外の景色を楽しんでいたが、ワインの酔いが回った のか、少し眠ってしまったようだ。

 ふと起きると、両サイドにブドウ畑が広がっていた。ここがボルドーの畑なのだ。バスは嬉しい ことにマルゴー村を通過した。退職記念に飲んだシャトーパルメがあり、始めて飲んだ格付けワ インのシャトー・マレスコ・サンテグジュペリもあった。眠気が一気にふっ飛んだ。僕はガラス 窓に顔を付けて、畑を覗き込んだ。おそらくその様子は高校生が楽器店でギターを覗いている姿 に通じるものがあると思う。明日はこの村に来よう。そう決心した。バスは時折ブドウ畑を離れ、 林の中を抜けていった。サンジュリアン地区のシャトーを通り過ぎ、バスはいよいよポイヤック 村に突入した。まもなくするとシャトー・ピション・ロングヴィルの美しい城が見えた。僕は再 びギター少年状態に陥った。早くバスを降りてその土を踏みたい気持ちで一杯になった。しかし バスはまだ止まらない。バスは村の中に進み、観光案内所の前も通り過ぎた。僕はどこまでつれ ていかれるのだろうかと心配していると、バスはジロンド川の港の前のホテルで止まった。運転 手がなにやら合図をしている。どうやらここで降りるようだ。ありがとう。

 ついにポイヤックだ。この村にはフランスを代表するワインが多く産出されている。5銘柄ある メドック地区の1級シャトーのうち、この村には3つもある。シャ卜ー・ラフィット・ロートシ ル卜、シャトー・ラトゥール、そしてシャトー・ムートン・ロートシルト。

 ワイン好きの僕にはたまらない村だった。憧れの村ともいえる。

 観光案内所に立ち寄った。ワインが所せましと飾られており、実際に販売されているようだ。し かし余り安くない。まあ、ワインの値段は後で見ることにしてこの村の情報を集めよう。まずは、 ムートン美術館について。係員の説明に僕は一瞬呼吸が止まった。僕の英語の理解力が正しいな らば、ムートン美術館は冬季は月曜日のみオープンしているとのことだった。なに。今日は木曜 日。全く話にならない。しかも、ここから歩いていくには距離があるとのことだった。せっかく ここまで来たのに入れないとは、全く残念極まりない。村人との会話に熱中しだした係員に挨拶 して、村の手作り地図を貰って僕は、外に出た。帰りのバスまでは時間があるので、とりあえず 村の散策でもしよう。

 港にはワインのボトルを模したモニュメントが立っていた。酒屋に入ると、ワインが案内所のよ うに並べられている。値段を見るが、ここでも安くない。種類も多くなく、年代も最近の物ばか りだった。ほとんどのワインは日本で買うよりも少し安いくらいで、ブルゴーニュでの価格差に 比べる、全くお話にならなかった。この金額ならば、日本への輸送料や途中で割れるリスクを考 えれば、無理してここで買うこともない。僕は非常に残念だった。旅の楽しみが奪われたような 気がしていた。

 ワインの買い物を諦めて、僕はとりあえず歩き出した。美術館は閉まっていてもムートンに行っ てみよう。ムートンは村の外れにあるらしい。村を抜けるのにそんなには歩かなかった。ムート ンは羊という意味で、そもそもは似た発音の小高い丘が由来だと何かで読んだことがある。その 名の通り、村から一丘上ったところにシャトー(醸造所)を構えていた。ジロンド河が遠くに望 めた。ムートンのオーナーはロンドンのロスチャイルド家だ。ドイツ語読みでロートシルト。で、 ロスチャイルド家といえば、日露戦争で軍資金を日本に融資した国際胃金融として有名だが、そ ういうことはこの村では関係がなく、シャトーは一面のブドウ畑の中にあった。僕の第一印象は 貴族のワイン作りだった。遠くまで一直線に続く白い砂利と緑の芝生。丸く整えられた木々。歴 史を思わせる倉庫。呑気に走るトラクター。良く手入れされた庭園はヨーロッパの貴族の家を想 像させた。タ暁けにシャトーの白い壁が照らされ、その光景はヨーロッパの金持ちと庶民の暮ら しぶりの落差を思い知らせるのに十分だった。

 ロマネ・コンティが農家の作るワインならば、このシャトー・ムートン・ロートシルトは貴族が 作るワインだった。シャトーの隣の広大な畑には、収穫を冬支度の準備のためか多くの農夫が作 業をしていた。この地道な作業が来年の収穫高に影響があるのだろう。彼らの熱心な作業を遠く から眺めていて、僕は日本で決意したあることを断念した。

 それは、この世界一のワインに僕の栄養を与えるというものだった。栄養とはつまり、おしっこ のことで、僕の分身が来年のワインに貢献するものと信じ、帰国後の自慢にするつもりだった。 自分が多少なりともこのワインに影響を与えているのかと思うと、優越感に浸れるではないか。 しかし、そんな不埒な考えはあっけなく捨てられた。別に農夫にジュニアを見られるのが恥ずか しかったわけではなく、僕としてはむしろ自慢したいくらいの代物だったが、彼らの仕事振りと この枝の美を見てしまったからには、どんなに立派なものでもそれを畑で出すわけにはいかなか った。

 ムートンの畑は、砂利が多く、水捌けをよくするためにか、一本一本丁寧に植えられていた。砂 利を三角形状に盛り上げ、その頂点にブドウが植えられているのだ。ブドウも枝を2本残して、 腰の高さほどに整然とならんでいる。しかも、畑は見渡す限り永遠と続いているのだ。「北の国 から」のテーマソングがとても似合いそうな風景だ。

 この畑に僕はプロフェッショナルを感じた。それは例えるならば、広大な畑に敷き詰められたド ミノたおしのような、繊細さとでもいったらいいのか。つまり一本の丁寧な手入れが丘全体に広 がっている驚異的な職人芸に脱帽してしまったのだ。世界有数のワインは、並大抵の努力では作 れないのだ。

 すこし肌寒い風が、畑に吹いて、夕暮れが訪れようとしていた。

 僕の疲れもピークにきていた。疲れというよりも栄養不足とでもいうのだろうか。サラダしか食 べていないのだから、持久カが急速に衰えていた。この先に、シャトー・ラフィット・ロートシ ルトがあるのだが、この夕暮れ時に、車道を歩くのは危険すぎるし、第一そんな体力は残ってい なかった。誠に残念ではあるが、バス停に戻ることにした。このラフィットもロスチャイルド家 の所有だが、こちらはパリの分家の方で、ムートンとは遠い親戚筋に当たる。ラフィットの意味 は小高い丘そのもの。名前からして、疲れそうだ。

 帰り道に一件の酒屋があった。中では人の良さそうなご主人がアメリカ人二人とワイン談義に花 を咲かせている。何々僕も会話に混ぜてもらおう。アメリカ人はムートンの93年ものの前で不 思議そうな顔をしていた。実はこの93年はいわくがあった。このムートンは毎年変わる著名画 家によるアートラベルで有名だが、この年はフランスの巨匠バルテュスが描いている。図柄は、 裸の少女が横たわっていて、これがアメリカでポルノの指定を受け輸出ができなくなってしまっ たのだ。アメリカは最大の輸出国であり、ムートンも大いに悩んだ末、ラベルを白地にすること で決着を見たらしい。したがってアメリカとそれ以外の国では、ラベルが違ってしまったのだ。 アメリカ人二人には少女の像が、不思議であったのも無理はない。僕がそこら辺の事情を彼らに 説明しようとしたが、僕が単語を探している間に、彼らは別のワインの値段交渉を始めたので、 今回は勘弁してあげることにした。商談が成立したらしく、シャトー・デュクリュー・ボーカイ ユを6本も買っていった。なかなかいいワインを選んでいるじゃないか。

 僕も何か一本欲しいところだが、有名シャトーはどれも高い。もちろん日本に比べれば安いのだ が、特にここで買いたくなるほどの価格でもなかった。ムートンのラベルコレクションを見なが ら狭い店内を探すと、鍵が掛けられた棚があった。日本ではなかなか手にはいらない年代物があ った。ラフィットの67年があった。ワインを嗜むようになると、自分の生まれた年のワインも 当然欲しくなるものである。ラフィットといえば、ボルドーで最高級の銘醸ワインである。 1855年の格付けでも4本の1級うちの第1位だった。日本円で3万円くらい。安いと思った。 自分の誕生年のワインがラフィットなんて格好よすぎる。しかもこれは日本でなかなか売ってい ないぞ。買ってしまおうか。

 しかし、ラベル(通に言わせるとエチケット)の汚れが気になった。 確かに30年も経っているのだから、汚れていて当然なのだが、30年間この場所に保管されて いたならばこんなに汚れはしないだろう。おそらく、30年の間に転々としてこのショーケース に落ち着いたのではないか。僕の想像は勝手に膨らんでいった。ラベルの汚れもそうだが、もう ひとつ気がかりがあった。それは日本を出る直前の池袋での田崎真也氏の発言だった。池袋のサ ンシャインでワインフェスティバルがあり、田崎氏の講演を聞きにいったのだ。このとき一つの 質問があった。1967年のワインなら何がいいかという一般客からの質問だった。 田崎氏は間髪を入れずにこう答えた。
「67年ならシャトー・ディケムが逸品です」。

 やはりディケムかと僕も領いたものだった。価格は20万円くらいもするらしいが、1万円会費 で20人集めれば、十分楽しめる。

 因みにこのシャトー・ディケムはドイツのトロッケン・ベーレンアウスレーゼ、ハンガリーのト カイワインと並んで世界三大貴腐ワインの一つであり、デザートワインの最高峰だ。「ワインの 女王」山本博著によれば、この世に生を受けたからにはこのワインを飲む喜びを知ってほしいと のことだ。しかも67年のシャトー・ディケムは世紀の大傑作らしく、その飲みごろは30年か ら50年以上経ってからという。

 僕はラベルの汚れとディケムへの憧れから、ラフィットは断念した。ラフィットの隣には、68 年のカロン・セギュールがあった。ハートのマークで有名なこのワインは彼女へのプレゼントに 最適だった。しかし、ラフィット以上に汚れている。手に持っただけでもボロボロに崩れそうだ った。ボルドー市内に戻れば、もっと状態の良いカロン・セギュールもあるだろう。僕は無理し てここで買うこともなかろうと、今夜飲めるワインを探そうと思った。見ると、レフォール・ ド・ラトゥールの77年が8000円ちょっとだった。シャトー・ラトゥールのセカンドラベル のこのワインは僕の好きなワインの一つだった。小田原で飲んだときはブーケ(香り)の余りの 豊かさに、圧倒されたものだった。ラトゥールは最近のものでも3万円位するが、このセカンド ラベルなら5000円くらいで飲めた。ところで僕はこのシャトー・ラトゥールのラベルが好き で、コラムに詳しく書くのでそちらも参照してください。

 話を戻すと、77年というと20年も前だ。ワインが好きになると、どのくらい古いワインを飲 んだかも自慢したくなる。僕のワイン歴はむちゃくちゃ浅いので、87年物が最古だった。それ を一気に10年も遡る。しかも好きな銘柄だ。今夜はこれで乾杯だ。

 僕は一人で興奮して、店の主人に鍵を持ってこさせた。彼もこのワインは好きなようで、小僧い いワインを選ぶじゃねえか、という表情が僕にはなんとも心地良かった。

 店の奥さんが丁寧に梱包してくれた。彼女へのプレゼントでしょと、僕をからかっている。20 歳の彼女がいるように見えたのだろうか。まさか今夜一人で晩酌するためだとはいえず、そのま ま頷くことにした。

 店を出るとかなり暗くなっていた。夜の国道は、危険だ。真っ暗になる前にバス停に戻ろうと、 2、3キロはあろうかという道程をてくてく歩いた。

 バス停に戻ると、あと30分で最終のバスがあるという。今からボルドーに戻ってホテルを探し 明日マルゴーに行くよりも、今夜はポイヤック村に泊まって、ゆっくり明日行くほうが良いと思 われた。パス停の付近にホテルも何件かあった。部屋があるようなら、今夜はここに泊まろう。

 レストランを兼ねたホテルを訪ねると、シングルの設定はないという。ダブルには泊まらないこ とにしていたので、他を探そうと思っていると、女主人が値段を言っている。フランス語なまり の英語だったが、何とか理解できた。1泊飯なしシャワー付きで200フランという。パリの半 額だ。僕はダブルには泊まらないという決意をあっけなく取り下げ、素直に200フラン支払っ た。人生、臨機応変よ。

 宿が決まった僕は、2階のマイルームから改めてジロンド河を眺めた。トムソーヤが、筏で昼寝 でもしていそうな風景だった。ついにワインの村に来たのだなと遅れ馳せながら実感した。部屋 も決まり、落ち着くと空腹を思い出すもので、僕は村の中心街へ歩き出した。しかし、村には何 もなかった。ついでに僕の現金もなかった。ワインとホテル代を払ったために手持ちの現金かな くなっていた。小銭が1000円分くらいあるだけだった。しかたなく、村の惣菜屋で夕食を揃 えることにした。マカロニやら茄子の煮込んだものやらが、グラム幾らで売られていた。メニュ ーも決めず注文の仕方も分からなかったが、僕には必殺技があった。英語を喋らない店主に30 フランを差し出し、この範囲でこれとこれとこれを混ぜてくれと、ジェスチャーした。店主は僕 の動作を理解してくれて、目方でそれらの惣菜を量ってくれた。多少のおまけも期待していたが、 きっちり量ってくれていた。残念。

 部屋に戻って、テーブルに惣菜を置いた。はしもフォークもなかった。手掴みで食べるには、少 し抵抗を覚えた。僕は悩んだが、とりあえず、先ほど買ったレフォール・ド・ラトゥールの77 年をアーミーナイフで丁寧に開けた。ワイングラスはなかったが、洗面台にガラスのコップはあ った。良く水洗いして、ワインを注ぐといい香りが漂ってきた。僕はお惣菜は無視してグイッと 飲んだ。極上の一杯というやつですね。今僕はポイヤックで、20年も前のワインを飲んでいる のだという喜びが、血液に乗って体中をぐるぐる回ってきた。今度は、愛する人とこの一杯を飲 みたいと願った。

 ワインの余韻を楽しんでいると、お惣菜と目が合った。これをどうやって食べようか。パンに挟 んでもいいが、どうやってパンに挟もうか。

 アーミーナイフからコルクを抜いて、はて困った。ん。アーミーナイフに何か白い物がふたつつ いている。これはなんだと、その白い物を引き抜くと、爪楊枝とピンセットだった。僕は小躍り して、楊枝の方を惣菜に突き刺した。

 少なめの夕食に満足して、僕はシャワーを浴びた。洗濯もTシャツと靴下、パンツの3点セット をこなした。タイル張りの床は冷たく、どうやら裸足で歩くのには向いていないようだ。考えて 見れは今は晩秋。透き間風が冷たい。重ね着ができない僕は、寒さを避けるように裸で布団に潜 り込んだ。ワインもフルボディ一本は多いかと思ったが、飲みやすいロ当たりに、大いに暖めら れ、空になる頃には僕も深い眠りに包まれようとしていた。

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