11月30日(日曜日) マドリード 「ゲルニカ」の巻

 早朝マドリードに到着。電車の中では間違いはなかった。パス類も無事返ってきた。マドリー ド市街に行くには地下鉄に乗らなければならない。地下鉄もスペイン国鉄が経営しているので、 ユーレールパスが使えた。地下鉄で3つ目の駅が市内の中心部だった。トミタさんとは、このア トーチャ駅で別れた。しかし僕もただでは起きなかった。今夜の食事の約束をして取り敢えず昼 間は自由行動ということで手を打ったのだ。やったね。

 VISAのキャッシュディスペンサーで5000円分のペセタを手に入れて、カフェで作戦会 議を一人でした。今夜の夜行でポルトガルに向かおう。バルセロナに行くのも悪くなかったが、 そこへは大学時代にいっているし、そして何よりポルトガルとは逆方向だった。どちらかを選ば なければならない。ヨーロッパの果て、ポルトガル。端っこが好きな僕としては、「果て」とい う言葉に目がなかった。

 ポルトガルで決定だ。今夜の10時すぎの電車に乗れば翌朝リスボンに着く。そして、その日 の夜行でフランスの国境まで戻り、ニースに行こう。バルセロナは次回のお楽しみにとっておこ う。さて予定が決まれば、夜行の予約だ。  国際線の窓口は駅の外れにあった。旅も慣れてくると指定席の予約もスムーズにできる。さあ、 この調子でマドリードの散策だ。

 11月も最後のこの日は、穏やかに晴れ上がっており、並木道の落ち葉を踏み締める音が耳に 優しかった。まずは プラド美術館 。午前中で閉館してしまうので急ぐ必要があった。美術館は無 料開放されていたが、客の大半は日本人観光ツアーの団体様たちだった。有名な絵の前で、ガイ ドの説明を熱心に聞いている。それにしても日本人だらけだ。フランスの田舎を歩いてきた僕に は、これほど大量の日本人を見たのは久し振りだった。絵の周りで固まりを作っては、次の絵に こぞって移動している。ガイドもこう言ってはなんだが、自慢気に絵の説明をしている。かなり 鼻につくその喋り方は、僕を大いに苛立たせた。何でこんな僕でも知っている知識に、団体様は 正直に頷いているのだろう。大した知識でもあるまいし。どうして大金払ってスペインにまで来 て、日本語のガイドを聞くのだろう。プラド美術館の資料は日本の書店で簡単に手にはいるのだ から、説明を聞くのではなく、その本物の絵を鑑賞したほうがいいと思うのだが。世界的に有名 な絵を場所の確認だけで終わらせてしまっている。何と勿体ない。余計なお世話だな。

 ところでプラド美術館のトイレは清潔で大変使い勝手が良かった。ヨーロッパのトイレは有料 のところが多く、しかも清潔からは掛け離れているケースも多いので、美術館のそれは大変重宝 だったりする。紙もちゃんとある。

 僕はプラドを十分堪能した。次はゲルニカだ。ピカソのゲルニカはここにはない。駅近くの ソフィア美術館 にある。この情報は、別れ際にトミタさんに教えてもらっていた。プラド美術館の 横には大型バスが横付けされており、恐らく日本人団体客はこのバスで移動するのだろう。確か に快適そうだが、あのバスでは現地の人と会話ができないぞ。そんなのが楽しいのだろうか。僕 には縁のない世界のように思えた。

 ソフィア美術館の手前で一人の女性にナンパされた。

 僕が日本人だと分かったのだろうか。彼女はマドリードの観光スポットの情報を求めていた。 日本人はほぼ全員が「地球の歩き方」を持っている。その本さえあれば、メジャーな観光スポッ トはチェックできる。言わば独り旅のバイブルだ。彼女は僕にその本を見せてくれないかと声を 掛けたのだった。しかし、僕は持っていなかった。「イタリア版ならあります」と答えると、「 じゃあなんでスペインにいるの」と聞かれ、「なんとなく」と答えてからどうも息が合ってしま ったようで、立ち話も何だから珈琲でも飲みましょうということになった。

 彼女はニューヨークで輸出入のコンサルタントの仕事をしていたそうで、仕事が一段落したの で、ヨーロッパでのんぴりしてから帰るつもりだという。知り合いに預けた猫も心配らしい。日 本を出て2年近く経っていて、彼女は日本の近況について知りたがった。年の頃なら35歳前後 だろうか。僕は、かいつまんで最近の金融不安などについて語った。彼女にとっては、僕が日産 生命破綻の現場にいたことが興味深かったようで、社員の動揺の様子など細かく聞いてきた。余 りに熱心に聞いてくるので僕も、なんとなく饒舌になったようだ。1時間も話しただろうか。話 題は日本の金融不安から僕の今後の就職についてまで及んだ。ワイン関係の仕事をするには、ま ず大手の資本を利用する立場につかないと資金的にも厳しいとの事だった。メーカー系列の会社 に就職してノウハウを得てから独立した方が、成功の確率は高いと彼女は親切にアドバイスして くれた。彼女はそういう海外ビジネスのアドバイスを仕事としているようだった。

 そろそろソフィア美術館の閉館時間も迫ってきた。名前も連絡先も聞かずに別れたが、こうい う一瞬の出会いもいいものだと思ったりした。

 ソフィア美術館に日本人団体客は少なかった。僕はゲルニカを探した。ゲルニカは入り口から 最も遠い場所にあった。警備員が3人つき、写真撮影は一切禁止されていた。

 でかい絵だった。戦争反対のメッセージが強烈だ。白と黒のコントラストに、足が動くはずが ない。ぼくはかなりの時間、その絵の前に立っていた。ゲルニカは1937年のパリ万博に出典 されて以来、60年以上の歳月が流れていた。スペイン内戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベト ナム戦争、湾岸戦争など、人類はいくつもの戦争を経験した。ピカソの弁を借りれば、絵という ものは「描き上げられた後でも、それを見る人の心の状態にしたがって変化し続けるものである 」。とにかくゲルニカは平和ぼけした僕の心を大いに惑わした。このメッセージは小さな写真集 からは伝わってこない。やはりこの大画面だからこそ発せられる衝撃波なのだろう。ここでもま た、僕の心に芯があるとすればそこが小刻みに揺れているのだった。死んだ我が子を抱きながら 泣き叫ぶ母親、馬の嘶き、内蔵が押し潰される音、重たい足取りなどなど、耳を澄ませば幾つも の悲劇的な音が聞こえてくるようだった。

 本当はもっと落ち着いて観賞したかったが、この世界的な絵画の周りは常に人だかりをつくっ ていた。仕方なく、遠巻きにその絵を様々な角度から観賞するにとどまった。

 僕はソフィアを出た。腹が減ったからだった。今日もクロワッサンと珈琲2杯だけしか食べて いない。腹が減るのも無理はない。僕はレストランを探した。しかし、日曜日の食堂はどれもが 混雑していた。美術館が集中するこの場所は離れよう。僕は郊外のほうへ歩き出した。しかし駅 から離れるにつれ食堂はなくなっていった。歩けば歩くほど食堂から遠ざかってしまったようだ。

 僕は諦めて駅周辺に戻った。すると小道に食堂があった。空いていた。混雑した店が多い中で、 これほど空いているのには訳がありそうだった。僕がその訳を知るのにそんなに時間はいらなか った。まずかった。サンドウィッチを注文したが、パンがぼそぼそで具もチーズしかなく、ビー ルで何とか胃に押し込むのが精一杯だった。これでは栄養がない。しかし、夜になればトミタさ んとの食事が待っている。小腹が埋まったのだから、これで良しとしよう。

 時間は午後3時になっていた。6時にティセンボルネミック美術館で待ち合わせになっていた。 この美術館は他と違い夕方までオープンしていたからだ。とりあえず、その美術館でも探そう。 そんな気楽な思いで歩き出した。

 しかし、その美術館が探し出せなかった。トミタさんが持っていた「地球の歩き方」の地図を 適当に写させて貰っていたのだが、僕のそのいい加減な地図にマークしたところには、ホテルリ ッツがあったのだ。僕は焦った。このままではトミタさんに会えない。通りを何往復もして探し た。栄養不足の体を奮い立たせて、あちこち歩き回った。しかし、結局その美術館はなかった。

 この場を借りて、トミタさんに言い訳させて貰えば、僕は3時間以上も待ち合わせ場所を探し たのだけれど、結局辿り着けませんでした。ごめんなさい。

 これは後日談だが、帰国後「地球の歩き方」でその美術館を調べてみると、プラド美術館の隣 ではなく、大通りを挟んだ斜め向かいにある事が分かった。僕はすっかり固定観念にしばられて、 プラドと同じ通りかと思い込んでいたのだ。ついぞ道を渡ることを忘れていたようだった。しか も、初歩的なミスとして道行く人に美術館の場所を聞くことも忘れていた。なぜ、道を聞かなか ったのだろう。その理由は思い出せない。

 一つの教訓が残った。地図はちゃんと写すべし、だ。

 昨夜、大阪の今宮戒神社の「えべっさん」から帰ってくると、トミタさんから年賀状が届いて いた。その文面は年賀状にもかかわらず怒っていた。しかし、そんなには怒っていないようなの で、今度横浜で一杯奢って謝ることにしよう。

 トミタさんとのデートに失敗した僕は、真っ暗になったマドリードの街を相変わらず歩いてい た。夜行電車は10時すぎだ。まだ4時間近くある。フラメンコの一つもみたいところだが、上 演時間は10時からだという。残念だ。

 日が落ちるとめっきり寒くなってきた。僕は暖を求めて駅前のレストランに一人で入った。こ のレストランではメニューが写真で飾られていた。一つのお皿にポテトあり、肉あり、サラダあ りなのだ。しかもどれもがうまそうだ。

 大学時代にスペインに来たとき、僕は太った。その理由が今やっと分かった。料理が注文しや すいのだ。写真入りのメニューは、言葉の壁を越える。パエリアなどのご飯類も日本人には馴染 みやすい。フランス料理やイタリア料理と違い一つの皿になんでも入っている。これらの理由に より、食が太くなり、その結果太ったのだ。騒々しい食堂は日本の定食屋のようで、一人での食 事も抵抗がない。しかも旨いときている。言う事なしだ。

 パエリヤとワインを食べ終え、僕は国際線の駅に向かった。時間は相当余っていたが、スペイ ンペセタの持ち合わせもなく、夜の繁華街を一人でさ迷うには寒すぎたのだった。

 駅では案の定暇だった。缶ビールを3本も空けてもまだ時間は潰れなかった。

 僕は時刻表を取り出して今後の計画を練ることにした。翌朝リスボンに着いて、その日の夜行 でフランスに向かおう。ボルドーに戻ってからニースだ。ニースからヴェネツィアに入ってその 足でウィーンに行こう。恐怖の夜行6連発だが、ウィーンではゆっくりオペラのシートで寛げる。 夜行ならばホテル代も浮くし、その分をオペラにまわそう。

 いや待て。パリにも未練があった。オランジュリー美術館を未だ観ていない。オランジュリー はパリで唯一の心残りだった。先日のパリで訪問したかったが、場所が分からず、しかも時間が なかったので、諦めていた。オランジュリーにはモネの睡蓮がある。円形の部屋に360度、見 渡す限り睡蓮が描かれているのだ。この絵には思い入れがあった。かつて大学時代からの友人N が、この絵がいかに素晴らしいかを説いてまわっていた。その彼が最近全く元気がないようで、 仲間内で大いに心配していたところだった。彼は阪神大震災を経験している。崩壊した阪神高速 の下、国道43号線を通って神戸に住む彼女を救出したらしいのだが、その惨劇は余りに衝撃的 だったようだ。彼女とはその後結婚し幸せな家庭を築いているが、地震の前後では彼は全く別人 になってしまっていた。彼の事が気掛かりだった。今の彼は熱心に睡蓮を語る頃からは想像もで きないくらい変わってしまっていた。僕は疎遠になってしまった親友に、再び会いたかったのか もしれない。

 睡蓮にこだわるのは、ホームシックの表れなのだろうか。昔の友達との寄りを戻したかったか らなのだろうか。しかし、パリには今回の旅でも行っている。同じ街に引き返すのは、抵抗もあ る。自分の計画に落ち度があるようで、いただけないからだ。やはりここは、未だ見ぬウィーン の街を優先すべきだろうか。大いに悩むところではある。

 とにかく時刻表によれば、あさってにはパリに再入洛できる。これからリスボンを経由してボ ルドーに行く間にオランジュリーの情報が得られれば、パリに行ってみよう。

 ホームに電車が入って来たようだ。僕は余ったペセタで水とお菓子を買って、指定された座席 に腰を下ろして、出発を待った。電車はコンパートメントでもなく、寝台でもなかった。普通の 座席だった。これで一晩過ごすのは辛そうだったが、仕方がない、ビールでも飲んで眠ることに しよう。

 車内には日本人が二人いた。僕の斜め後ろの席に女の子たちが僕の横のカナダ人と談笑してい た。カナダ人は最初僕としばらく話していたが、僕が適当に会話を繰り上げてしまったために、 他の話し相手を見付けたようだった。

 彼女らは関西訛の日本語を話していた。僕がトイレに立ったとき、片方の女の子と擦れ違って、 ふたことみこと会話をすると、彼女らは高知出身である事が分かった。

 カナダ人のカップルは相変わらず何やら話している。僕は疲れていたので、会話には参加せず にゆっくりと目を閉じた。寝付きが悪く、しばらく彼等の会話を聞いていたが、知らないうちに 眠ってしまったようだった。

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