12月4日(木曜日) 雪のミュンヘンは寒かったの巻

 パリを出た電車は、バーデンバーデンを経由してミュンヘンに朝着くことになっていた。バー デンバーデンといえば、温泉だ。ヨーロッパを回る日本人には評判の町だった。誰もが旅の疲れ を癒すために、この町に寄っては、他の町で知り合った人に温泉の良さを勧める。温泉は駅から バスに乗ってすぐのところにあるらしい。噂によれば混浴デイもあるそうで、これは今から楽し みだった。混浴といってもお風呂は水着着用らしいが、サウナは水着不着用という情報を持って いた。混浴といえば、青森県の酸ヶ湯や秋田県の乳頭温泉で慣れてはいたが、やはりウキウキす る。僕はバーデンバーデンを心待ちにしていた。

 ところが、バーデンバーデンは大雪だった。時間は朝の4時、外は大雪。僕の楽しみはあっけ なく取り上げられてしまった。こんな時間にこんなに小さな駅で温泉が開く時間まで立ち尽くす 事はできないだろう。僕には凍死の覚悟がなかった。凍死覚悟で温泉に入るか、このまま暖かい 電車でミュンヘンに直行するか。両者を天秤に掛ければ、温泉が負けるのは目に見えている。 僕は通り過ぎるバーデンバーデンの町を指をくわえて見つめるしかなかった。残念だ。せっかく の美女との背中の流しっこが、流れていった。

 ミュンヘン駅にも雪が積もっていた。寒い。駅に隣接する観光案内所で市内の地図を貰いに行 くが、0.5マルクするという。僕はドイツマルクの持ち合わせがなかった。駅でフランの残り のトラベラーズチェックを両替して、再び案内所に戻った。地図を初めて買って今日の予定を立 てた。今までの街では地図は無料だったからだ。

 僕はミュンヘンは2度目だった。大学時代にロマンティック街道をバスで巡った時に、立ち寄 っていた。そのときは郊外の古城を改築したユースホステルに泊まったが、今回は泊まらずに夜 の電車でウィーンに行くつもりだった。この街の近郊にフュッセンがある。ディズニーランドの シンデレラ城のモデルになったノイシュバンシュタイン城で有名な街だ。僕は大学時代にフュッ センを訪れ、そこのユースホステルの食堂でたまたま出会った日本人と今でも交流がある。その 彼が昨年の七夕、京都で結婚した。僕はその時の二次会の幹事を務めきせていただいて、新婦の 友達と仲良くなったりした。フュッセンで数時間一緒に酒を飲んだだけでも、10年来の付き合 いがあったりするわけで、僕はその思い出深い街のそばまで来ていた。ちなみに彼の新婚旅行先 もフュッセンだった。嫁が帰国後嘆いていた。僕との思い出を一々話す旦那に、耳にタコ状態だ ったらしいのだ。

 今回はオペラを優先しよう。フュッセンは僕の新婚旅行までお預けにしよう。シンデレラ城を 一人で見てもつまらないだろうから。

 今回の旅にドイツは含まれていなかったので、下調べが不十分だった。せっかくドイツまで来 ているのだから、ドイツのブドウ畑も歩きたくなっていた。ドイツには、トロッケン・ベーレン アウスレーゼという貴腐ワインがある。フランスの畑との違いをこの足で確かめたかった。しか し、その畑がどこにあるのか全く分からない。しかも時間がない。ユーレールパスの有効期限も 後5日しかない。ここは日本で調べ直して、出直した方が効率よく他の観光スポットを巡れるだ ろう。第一今回の旅はイタリアがメインだったはずだ。そろそろイタリアに入国して本来の目的 も達成しなくては。

 ところで、ドイツのワインは日本では悲しい飲まれ方をしているらしい。ドイツワインは日本 の酒屋さんのほとんどで売られているが、いわゆるワイン通の人達にはいたって評判が悪い。ま ず甘い。甘いので料理と一緒に飲めない。その甘さゆえ初心者向けのおこちゃまワインとして低 く見られている。次に名前が妙に長い。ドイツ語がカタカナで表記されて、例えば、 ガウ・オーデルンハイマー・ヘルゴッツファートなんていうのは、なかなか敬遠したくなる名前 だ。そして、ドイツといえば、どうしてもビールのほうが前面に出てきてしまう。ワインよりも ビールだろう。そんなわけで僕もビールをたらふく飲むことにした。夏ならばビアガーデンもオ ープンしているが、生憎今は雪が積もっている。屋内のピアガーデンで我慢しよう。有料の地図 を頼りにひとまず市庁舎付近の散策をした。市庁舎前の広場には露店が沢山出ており、賑やかだ った。僕はフランクフルトソーセージをパンで挟んだだけのサンドウィッチと目があった。パン は丸くて固そうだ。ひとつ300円ちょつと。フランクフルトソーセージにはマスタードかケチ ャップをつけてもらって、歩きながら頬張るのだ。これがうまいのうまくないのって、うまいの だ。表面の皮が破れる音が食欲をそそった。ソーセージは黒と白の2種類あった。僕は今朝から 何も食べていない。黒と白の「味比べ」もしたいし、ケチャップとマスタードも比べたい。僕の 頭脳はとても単純にできていた。4個食べれば全ての味を楽しむ事ができると計算された。僕は ひとつ注文しては市内を歩き回り、食べ終わると同じ店に戻った。さすがに4往復もすると恥ず かしくもあり、オジさんに顔を覚えられているようで気恥ずかしくもあった。そして4パターン の全てを食べ終えた僕は、ベストな組合せを決定した。この「庶民の味選手権」優勝は、黒ソー セージとケチャップのコンビだった。マスタードがもう少しピリリと辛ければ、よかったのに。 とにかく優勝には賞品が必要だろう。優勝の記念に同じ取合わせのパンをもう一つ注文してしま った。こんなパンを意味もなく5個も食べてしまった。そこまでやるかと自問したが、庶民の味 には逆らえなかった。暇だったことも確かにある。しかしそれよりも大切なことは、旅は自分自 身で盛り上げなくてはならないということだ。だから5個食べたのだ。

 ビールはビルの2階の喫茶店で2杯飲んだ。折しもクリスマスシーズン。賑やかな店内はカッ プルの待ち合わせとして活用されていた。

 ところでこの喫茶店でビールを飲んでいて、くだらないことに気が付いた。それはイタリア、 フランス、ドイツの喫茶店事情だった。イタリアではBARでの立ち飲みが主流だ。フランスで はカフェテリアになるのだが、そこには椅子がある。そして道路に面して、というか張り出して ひとときの珈琲ブレイクを楽しんでいる。ドイツでは喫茶店は2階にあり、ソファーのような座 り心地の良い椅子があった。ドイツ形式は日本と同じだ。アルプスを挟んで右か左か下にあるだ けでこんなにも形式が変わってくるのだと、可愛らしい女性によって運ばれたドイツビールを飲 みながら、思ったりした。

 ビールも飲んでソーセージも食べたら、やることがなくなった。僕は有料地図の裏面を見なが ら観光ポイントを探した。この先に現代アートの美術館があるらしい。ピカソやアンディー・ウ ォーホールの名が読み取れた。まずはそこに行くか。雪こそ止んでいるが、とにかく外は寒い。 美術館なら時間も潰せるし、暖も取れる。

 感想から先にいえば、美術館はとてもつまらなかった。確かにピカソもウォーホールもあるこ とはあった。しかし、その作品は余りにもマイナーで、僕をがっかりさせた。現代アートは、そ のほとんどがそうであるように、キャンバスに何が描いてあるのかが分からない。線があったり 点があったり、黒があったり緑があったり、壁に椅子がささっていたりした。僕にはそのアート の良さが全く理解できなかった。館内も人気がなかった。しんと静まり返った美術館は、寒さに 凍えたばかりの僕にはとても居心地が悪かった。

 場所を変えよう。もう少し賑やかな場所に移ろう。

 僕が選んだ場所はドイツ博物館だった。博物館だからそんなに賑やかではなさそうだが、駅に も近いし、ここよりは人もいるだろう。再び結論からいえば、この博物館には確かに人はいた。 しかしやはりおもしろくなかった。僕がまだ中学生だった頃、この手の博物館にはよく来たもの だ。古代遺跡の建築現場の模型があり、海賊船があり、発明当時の車があり、戦闘機があり、ロ ケットがあった。まさにドイツが工業大国である事を証明していた。いわゆる強いドイツである。 しかし、ここの展示物は関係者には大変申し訳ないが、新たな発見というものがなかった。日本 の博物館でも頻繁に見掛ける展示物だったのだ。僕はせいぜい地元の高校生たちとじゃれ合うの が精一杯だった。やはり興味がないものについては、文章も書きにくい。書きにくいものを無理 して書くこともないだろうということで、館内の状況は全て省略しよう。

 いろいろあって僕は外に出た。すでに日は暮れていた。非常に寒かった。市庁舎付近に戻ると 大きなクリスマスツリーがぴかぴか光っていた。建物もライトアップされ、美しいドイツの夜を 演出していた。僕は暖を求めてデパートに入って行った。最近僕はデパートに凝っている。デパ ートでは真っ先に地下食料品売り場のワインコーナーを探す癖がついていた。いいワインが置い てあるデパートは、それだけで店全体の評価も上がったりした。ちなみに最近行ったデパートは 次の通り。横浜そごう、横浜高島屋、東急クイーンズイースト店、東急本店、高島屋新宿店、阪 急梅田店、広島そごう、広島天満屋、伊勢丹京都駅ビル店、大丸京都河原町店、福岡キャナルシ ティ、本文と関係がないので割愛しよう。

 ドイツのデパートでもワイン売り場を探した。日本円にして大体1000円から2000円前 後のワインが陳列されていた。ドイツワインといえば、やはりフランケン地方の平べったいボト ルが有名だ。山羊のたま袋という不名誉な通称もあるらしいが、やはりドイツといえば、このワ インだ。僕はこのたま袋ワインを夜行の寒さ対策のために一本買った。

 売り場ではクリスマスに合わせてシャンパンの実践販売もされていた。僕も一杯貰うことにし よう。ブリュットとロゼの2種類が、グラス売りされていた。僕はブリュットを注文したが、う まく通じなかった。どうやらアクセントはリュではなく、ブにあるらしい。

 シャンパン一杯500円弱か。ちなみにブリュットは辛口の意味。

 デパートを出るといっそう寒さが身に凍みた。僕は急いでビールを飲ませそうな店に入った。 そこはキリンシティのような店だった。客のほとんどがビールを飲んでいて、つまみを取ってい るのはごく僅かだった。僕は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わう店内で、一人寂しくビールを 飲んでいた。どうもスーツ姿のドイツ人には気楽に声を掛け辛かった。しかも一人で飲んでいる 客は待ち合わせ風であり、なかなか声も掛け辛かった。そんな訳で、僕は一人でビールをジョッ キで3杯も飲んでしまったのだった。腰の高いテーブルは、牛丼屋の椅子と同じ意図があり、長 時間座っていられるような構造にはなっていなかった。僕は時刻表を取り出して、これからの予 定を確認した。ウィーン行きの電車は夜11時すぎだった。今は午後6時。これから5時間も何 をしたらよいのだろう。外は寒い。そうそうビールばかりも飲んでいられない。僕の単純な頭脳 が、働き出した。答えはすぐ出た。退散しよう。8時すぎにナポリ行きの電車がある。あと2時 間なら駅で待てそうだ。この分ならウィーンも大層寒かろう。いや寒いはずだ。寒いに決まって いる。オペラはイタリアで観ればよか。そもそも今回の旅はイタリア留学のための下見が目的だ。 何でドイツにいるのだ。しかも何で更にオーストリアに向かおうとしているのだ。イタリアへ戻 ろう。僕の頭脳が寒さに反応して正常なコースへと導いたようだ。ありがとう、この寒さ。

 ミュンヘン駅に戻ると、テレビの大画面で98年のワールドカップの組み合わせが発表されて いた。日本はジャマイカと、アルゼンチンと、クロアチアと対戦のようだ。テレビの前では、人 々が対戦表を眺めながら一喜一憂している。やはりサッカーはヨーロッパの国技なのだ。隣のオ ッちゃんたちの表情を見れば、それは一目瞭然だった。

 駅の売店は繁盛していた。僕は残りのマルクを使い切ってしまおうと、水を買って、少し迷っ たがホットドッグを注文した。このホットドッグは日本でも売っている、へなへなの長めのパン にソーセージが挟まれていた。余り美味しくない。やはりドイツでは堅めの丸いパンにフランク フルトだろう。僕はマスタードよりケチャップがお薦めだ。

 結局今日はパンを6個も食べている。それ以外は何も食べられなかった。今後は片意地はらず に栄養のバランスも考えよう。この旅もあと10日もあるのだから。

 ミュンヘンでの出来事を一つ忘れていた。それは、この街から国際電話を掛けたことだ。日本 を出て早2週間。無事を両親に伝えたいと思っていた。電話は何度でも掛けるチャンスはあった が、諸般の都合で延期されたままだった。まずイタリア・ミラノでは、公衆電話はあったが、小 銭がなかったのであっさり諦めた。フランスでは全ての電話がカード式だった。フランスでは畑 ばかり歩いていたので、テレフォンカードを買いそぴれていた。パリでも買うチャンスはあった が、特に興味もなく買わずに過ごしていた。スペインでは電話が壊れていて、せっかく入れたコ インも返ってこなかった。ポルトガルでは飲み過ぎていたので、電話まで気が回らなかった。諸 般の都合とはそういったものだった。

 ドイツの電話はコイン式だった。しかも正常に作動した。両親には旅の無事を報告した。トリ ノから送ったワインも届いているという。しかし、3本のうちの1本が粉々に割れていたそうだ。 おお。ナンテコッタ。マンマミーヤ。あれほど厳重に梱包したのに、酷い話だ。そしてそれは、 僕に何ともいえない嫌な予感を感じさせた。咋日送ったシャ卜ー・ディケムだ。あれが割れてい たら洒落にならない。僕は祈るようにフランス郵政省に手を合わせた。どうか割れていませんよ うに。11万円が、粉々になってはイカンぞ。

 話を戻そう。ナポリ行きの電車は空いていた。この電車はローマにも止まる。僕はひとまずロ ーマまで行くことにした。それには理由があった。イタリアはトラベラーズチェックがそのまま 使える店が少なかったからだ。事前の情報によれば日本人御用達のブランド店ぐらいしか使えな いという。しかも、発行から1年の有効期限が設けられており、他の通貨のチェックよりも不便 だった。そこで日本でリラのチェックを買うときに一つのアドバイスを受けた。それは、ローマ 銀行の本支店なら手数料なしで現金化してくれるという。ナポリにもローマ銀行はあるだろうが、 もしなかった場合、今日は金曜日だから三日間も両替できなくなる恐れがあった。街の両替所で 現金化するのももったいない。ローマで一旦降りて半日観光でもして午後にナポリにでもいけば 良さそうだ。

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