12月5日(金曜日) ローマ 詐欺師の手口の巻

 ローマ・テルミニ駅には午前9時ごろ着いた。「地球の歩き方」の登場だ。表紙の次ページに ローマの地図があった。その地図の裏にはイタリア全土の地図が描かれていた。僕は地図の部分 だけちぎり、本体はバッグに戻した。この地図には当然ローマ銀行の場所は書いてなかった。僕 は適当に大通りを歩いて、コロッセオ方面に向かった。ローマは2度目で大体の観光ポイントは 押さえていた。その中で唯一漏らしていたポイントが真実の口だった。ローマの休日で有名なこ の場所でも行って駅に戻れば時間もちょうどだ。

 ふと考えてみると、イタリアは久し振りだった。今回のメインはイタリアだったのに、だいぶ 留守をしてしまった。当初今回の旅はイタリアだけの予定であった。期間も3年。語学留学をし てワインの輸出入の仕事に就こうかと考えた。ところが僕が資料請求した留学コースには語学コ ースの設定がなかった。料理や芸術のためのコースだった。語学だけなら3か月から1年の体験 入学があるという。体験コースに申し込むのは誰だろうと想像した。おそらく料理人の修行者か 主婦だろう。主婦とは保険会社の仕事柄、いつも一緒だったから、異国でわざわざ会う事もない だろう。しかも日本は大不況である。帰国後の仕事探しは困難を極めそうだ。僅かな期間留学し ても、イタリア語のエキスパートにはなれない。ならば、今回は気分転換を兼ねた留学準備にし よう。気分転転換ならば、ボルドーにも足をのばしたい。ミラノ・ボルドー間の電車代を調べた。 正確な金額は忘れたが、かなり高かった。それならばヨーロッパを周遊できるユーレールパスの ほうが、いいだろう。パスを買うなら、ボルドーだけでなくロマネコンティやらシャンパーニュ にも行きたくなってくる。ストックホルムに住む後輩にも会いたくなってくる。先日彼女の妹か ら電話があり、最近子供が生まれたそうだ。この場を借りて、おめでとうを伝えたい。

 そんな訳で、話は思わぬほうへ展開し、旅のついでにポルトガルまで行ってしまったりした。 スウェーデンは寒さのあまりパスした。

 話が逸れた。なぜイタリアなのか。それはNHK教育テレビのイタリア語会話との出会いだ。 NHKも変わったものだ。番組では陽気なイタリア人が日本人の女の子をナンパしながらイタリ ア語を教えていた。会話はイタリア語よりも日本語のほうが多い。こんなにも楽しく語学が学べ るのかと、毎週火曜日の深夜が楽しみでならなかった。会社が破綻して、暗くなりがちだった毎 日をイタリア語の陽気さが救ってくれたような気かした。

 初めはちんぷんかんぷんのイタリア語でも、毎日欠かさず見ていると、結構覚えるものだ。簡 単な旅行会話なら話せるようになった。会社もなくなり暇になった。ある程度の金もある。嫁も 子供もいない僕には、すぐに職を探す必要がなかった。ここは、気分転換しかないだろう。イタ リアにでもいってこよう。こんなに長期な休みはめったに取れないのだから。

 話が逸れたままだ。ローマに戻ろう。僕はBARでカプチーノを飲み、ローマ銀行に入店した。 入口は強盗防止のためにいろいろな仕掛けが設置されていた。空港のようなボディチェックがあ り、カメラや荷物はロッカーに預けなければならなかった。

 しかもこのロッカーが小さいこと。僕はバッグの中身を工夫して本当に狭いロッカーに押し込 んだ。銀行の窓口もガラス張りになっていて、僅かの隙間から現金のやり取りをしていた。僕は トラベラーズチェック全てを現金にしようと思っていた。チェックの利点は盗難に遭っても再発 行ができる点だったが、首から下げた貴重品袋に入れておけば、大丈夫と判断した。イタリアで は現金のほうが断然使い勝手が良かったからだ。僕は100万リラ分のチェック全てにサインを して順番を待った。100万リラといっても日本円に直すとわずか8万円弱だ。ところが窓口の 行員は、こんなにもの大金は一度に現金にできないという。30万リラまでしか取り扱わないと 冷たくあしらわれる始末だった。僕は納得いかなかったが、根が小心者だけに素直に引き下がっ てしまった。何よりもこの銀行の厳重な警備体制におののいていたという説もある。

 銀行を出ると、コロッセオが見え隠れしていた。ひとまず観光でもして、気を晴らそう。コロ ッセオには日本人が群れをなしていた。団体客の余りの多さに僕は、コロッセオ見学を断念して、 コンスタンティヌス凱旋門を潜り真実の口を目指した。どうも日本人の団体は苦手だった。歩道 をのんぴり歩いていると、車のクラクションに呼び止められた。アメリカ人ぽい運転手が僕に手 招きしている。どうやら道を聞いているようだ。ここからの件は今思い出しても腹が立つので、 冷静に書き連ねよう。

 アメリカ人運転手は僕に駅までの道を尋ねてきた。彼の地図と僕の地図を照らし合わせ、テル ミニ駅を探した。どうやら彼は駅と反対方向に進んでいることが分かった。僕が丁寧に道を教え ていると、彼は僕の答えを途中で遮り、別の話をしてきた。君は日本人かと尋ねてきた。そうだ と答えると、握手を求めてきた。何でも彼には大阪に無二の親友がいるらしく、日本人には大変 好感を持っているとのことだった。彼は革製品のプロモーターとしてパリとローマを行き来して いるという。今日もこれからパリに向かうらしい。彼の話し振りは大変陽気で好感が持てた。彼 が後ろの座席の荷物をごそごそと動かしている。僕がなんだろうと眺めていると、2着のジャン パーを差し出した。黒の革ジャンと茶色のビロードのジャンパーだった。今日の出会いに感謝し て、この2着を僕にくれると言う。道を教えたくらいで、そんなものは受け取れないと固辞した が、陽気な彼も遠慮するなと身を乗り出して言うものだから、素直に貰うことにした。僕が車か ら離れ、別れの挨拶をすると、まだ話がありそうだった。彼は運転席のパネルを指差している。 これを日本語で何と言うか聞いてきた。僕が覗き込むと、ガソリンのエンプティマークが点灯し ていた。僕は日本語で「ガソリンがない」と教えてあげた。彼も真似をして「ガソリンガ、ナイ」 と言った。そしてさらに彼は英語で続けた。「ところで、僕がこれからパリに行かなくてはなら ないってことは知っているよな。ブラザー。ものは相談だが、ガソリンを少し入れてくれないか。 そのジャンパーもあげたことだし、友達だろ」

 彼が僕にガソリン代を要求してきた。普段の僕ならば、そんな要求は突っ撥ねるのだが、彼自 身もいい奴そうだし、それに現金もたくさん持っていた。2、3千円位ならいいかと、思ってし まった。僕が財布から1万リラ札3枚を差し出すと、それでは足りないという。それだけではパ リに行けないとも言った。なるはど一理ある。僕は少しためらったが、5万リラ札を彼に差し出 した。4000円くらいか。彼はそれでも足りないという。財布を見せてくれとまで言ってきた。 さすがにこれ以上は無理だと拒否すると、彼も諦めたようだった。他人に財布など渡そうものな ら、逃げられるのがオチだ。しかも中には現金がかなり入っているのだ。そんなもの渡せるはず もない。

 彼は手招きをした。ガソリンは諦める、その代わり今のジャンパーを見せてくれという。僕が 素直に従うと、彼は黒の革ジャンを取り出して、後ろの座席に投げ入れた。そして文句の一つも 掃き捨てると、あっという間に車を走らせてしまった。僕は呆然と立っていたが、手元に茶のジ ャンパーが残っていた。

 これを詐欺というのだろうか。フツフツと怒りか込み上げてさた。僕はジャンパーを地面に叩 き付けて悔しがった。外人さんとの会話が盛り上がると、いい人と思い込み、つい油断してしま うのだ。無料ほど高いものはない、とはこのことだ。ところでこのジャンパーはどうしたものか。 ためしに袖を通してみたが、やはり小さかった。こんなもの持っていても役に立たない。フリー マーケットで売ってしまおうか。しかし徐々に小さいジャンパーを持っているだけで、怒りが増 してきた。目の前にごみ箱があった。僕は思いっきり強くそれを投げ捨てた。もう見るのも嫌に なっていた。

 アメリカ人運転手の巧みな話術にひっかかったのだ。悔しすぎる。悔しいので話を先に進める ぞ。おう。

 真実の口は小さい教会の入り口にあった。初め気がつかなかったが、日本人の女の子たちが記 念写真を撮っているところを見ると、これがそうなのだろう。一応お約束で、口に手を入れて写 真を撮ってもらった。真実の口を見てしまうと、トレビの泉にも寄りたくなってきた。トレビの 泉に背を向けて、肩越しにコインを投げ込むと、再びローマに戻ってこれるというあれだ。僕も かつてコインを投げ入れたために、ローマに戻ってこれたのかもしれない。やはりここは敬意を 表して再訪すべきだろう。そんなに遠くないし。

 トレビの泉は遠くはなかったが、壊れていた。地震か何かの影響で泉の周りの彫刻は無残な姿 になっていた。これではトレビの水溜まりだ。思えば大学時代に来たときも工事をしていた。8 年経っても工事が終わっとらんやないか。どないなっとんねん。

 気を取り直してスペイン広場にも行った。僕は広場の階段に腰を下ろし、「雪国」を読み耽っ ていた。ワインの入っているペットボトルを階段に置いて、ひんやりとする石の階段に座って目 を閉じると、小説の情景が目に浮かぶ。名作だ。オードリー・ヘップバーンはここでジェラート を食べたが、僕は雪国を読んでいるのだった。

 1時間も座っていただろうか、僕は見覚えのある女の子たちに声を掛けられた。真実の口で写 真を撮り合った4人組の女の子たちだった。どうやらここでも写真を撮ってくれとのことだった。 おやすい御用だ。僕は彼女たちに愛想を振り撒いて、元の位置に座り直した。すると、その一部 始終を見ていたらしい青年に声を掛けられた。おちんちんを持つ人間に興味はないが、これも場 の流れだ。流れに従ってみよう。彼もまた無職の旅人だった。コージという名の渋谷に住む青年 だった。自分で店を経営していたが、いろいろあってその店をたたんだという。旅を始めて1週 間くらい経つらしいが、日本語を話すのは久し振りだという。僕らはとりとめのない話で盛り上 がった。そして、何の因果か意気投合して彼とは次の日の晩まで一緒にいることになった。寒空 の下の階段で座り話も何なので、BARで珈琲でも飲もうということになった。コージは立派な ガイドブックを持っていた。アウトレットの店から、世界一のエスプレッソを出すBARまで何 でも知っていた。イタリアの珈琲ならどこで飲んでもうまいはずだが、雑誌に書いてあるので是 非そこで飲みたいという。僕も暇なのでコージに付き合ってローマ見学と決め込んだ。今夜はナ ポリに泊まる予定だったが、明日に順延だ。それには理由があった。コージが熱っぽく語る美術 館に興味を持ったからだ。コロナ美術館。土曜日しか開館しないという知る人ぞ知る美術館らし い。僕はそんな名前は聞いたことがなかったが、余りにコージが熱弁を振るうので、そこを見て からナポリに行っても遅くないだろうと予定を変更したのだった。今日は金曜日で、明日がちょ うど土曜日だった。

 グッチなどのブランド店をまわったが、男同士で来るような雰囲気が全くないので、早々に切 り上げ、古着屋や靴屋などの店をコージについてまわった。コージはこの手の掘り出し物に詳し く、熱心に品選びをしていた。コージはカルヴァン・クラインのダウンジャケットが気にいって いたようだが、これからの長旅を考え、買わずに出てきた。コージもこれからミラノとパリに寄 ってからロンドンに行くという。クリスマスはロンドンで迎えるらしい。彼も長旅だった。後日 広島のデパートで同じジャケットを見掛けたが、ローマは日本の半値だった。日本が高いのか、 イタリアか安いのか。

 珈琲ブレイクは、わざわざその世界一のBARとやらを探して、楽しんだ。確かにうまい。し かしこの味ならばイタリアの至る所で楽しめるぞ。僕は改めてコージをみた。珈琲一杯に目茶苦 茶感動している。彼の感動振りを見ているうちに、ここが世界一でも構わないと思った。

 珈琲を飲み終えると、コージがもう一度靴屋に行きたいという。どうしても気になる靴がある ので、寄りたくなったらしい。彼はなかなかセンスがあるので、僕も参考までにお洒落な靴の一 つでも買おうかとも思った。しかし店はシエスタに入っており、休みだった。イタリアでは12 時半から15時半まで長い昼休みに入ってしまうのだ。しかも日曜日は休みなので、買い物をす るには少し不便だったりする。

 僕らはある広場の屋台でビールを飲んだ。コージにハイネケンを2本も奢って貰った。2本目 を買うときに値引きの交渉をしたが、彼も雇われ店長らしく、ビールはおまけできないらしい。 ビールも二人で飲むとうまさ倍増だ。ごちそうさま、コージ。

 コージは三越の隣のホテルに長期滞在しているという。僕もそこに泊まることにして、一旦ホ テルに戻ることになった。ホテルは三星だった。料金は、コージの言っていた金額とかなりの開 きがあった。支配人によると、長期滞在と一泊の違いだと言う。少し高いと思ったが、違うホテ ルを探すのも面倒だ。僕はここにチェックインすることに決めた。コージと一緒に部屋に入ると、 部屋の設備が全く違うという。なるほど、だから料金も違ったのだ。宿も決まって、支配人にこ の街の情報を聞くことにした。庶民的な食堂やオペラハウス、各種エンターテイメントなどなど。 ポルノ情報も聞き出したが、そこは確かに楽しいところだが少し危険なので十分注意したほうが 良いとのことだった。

 僕らは歩き出した。まず隣の三越の見学をした。お客は100%日本人観光客だった。真実の 口のレプリカの前で記念撮影しているが、本物が近くにあるのになぜ偽物を撮るのか不思議だっ た。おそらくツアーには三越はあっても真実の口はないのだろう。聞くところによると、団体客 は分刻みで行動しているらしい。それはそれで大変だ。

 オペラハウスにも行ってみた。今夜の公演があれば是非、観賞したいところだ。生憎、今夜は オペラはないという。イタリアではオペラは週に1回あるかないかで、毎晩公演があるウィーン とは対照的だ。しかも、ヴェルディやプッチーニなどの人気公演だとチケットの入手は困難を極 めるそうだ。今夜の公演がない以上僕らは諦めるしかない。諦めかけていると、オペラハウスの 係員が、普通の演劇なら近くの小劇場で公演があると教えてくれた。仕方がない、その演劇で我 慢しよう。僕らがその小劇場に行くと、公演は8時からだという。まだ時間はある。僕らはホテ ルの支配人に紹介して貰ったバロッカというトラットリーアに向かった。店はホテルの近くにあ ったが、メニューに日本語のルビが振ってあった。日本語メニューには抵抗があるが、とりあえ ず赤ワインを注文した。キアンティクラシコだった。美味しいワインだった。僕は前菜に生ハム とモッツァレラチーズを取った。一皿目はボンゴレ・スパゲッティを、二皿目は肉料理をたのん だ。ボンゴレ・スパゲッティの方は、少し麺がのぴていて、アルデンテからはほど遠く余り美味 しくなかったが、コージがたのんだトマト系のスパゲッティはほど良い堅さで美味だった。トラ ットリーアとはいえ、本格的イタリア料理に挑戦だ。コージも大満足のようで、ワインもすぐに 空になった。2本目の赤ワイン、バルベーラのピッコロサイズもうまかった。

 この調子でワンランク上のリストランテにも挑戦したいところだ。もちろんそこへは、女性と 来たいところだ。

 食事にも満足して、店員とも仲良くなって、僕らは店を出たが、まだ公演時間まで間がある。 僕らは2次会に流れ込んだ。椅子のあるBARのような店で、イタリアンスパークリングワイン のスプマンテを空けた。アメリカンオールディーズがかかる店で、ゆったりとした気分に浸った りした。コージが感動を表に出している。彼もローマに来て1週間経つが、やはり一人ではこの 手の洒落たBARに来ることもなかったようで、スプマンテの泡を大事そうに飲んでいた。BGM がジョン・レノンになった。もう時期ジョン・レノンの命日だ。ローマのBARでジョンに会え るとは感激だ。

 この店は地元の若造たちが集まる店のようで、こういう観光化していない店というのは長旅を する人間には心地がよい。そこには観光ではなく、生活があるからかもしれない。

 そろそろ公演の時間だ。僕らは赤ら顔のまま小劇場に向かった。席は2階席だった。そこは2 階建ての映画館をコンパクトにまとめたようでもあり、真下に舞台が見えた。上演時間まであと 少しある。僕らは待合室のBARでカプチーノで口元を潤した。このカプチーノという飲み物は なぜこんなにうまいのだろうか。180円くらいの立ち飲みなのだが、この味は日本のカプチー ノとは全く別物だった。それは、同じお好み焼きでも、広島焼きと関西風ほどの違いだと思う。 この違いは飲んでみないと分からない。

 芝居は悲壮感漂う物語で、複雑な人間関係があるようで、全く話の展開が読めなかった。これ が映画なら状況や表情から、ストーリーは推測できるのだが、登場人物の誰もが哀しそうでもあ り、何がそんなに悲しいのかが分からなかった。テンポの速い金切り声のイタリア語は解読不明 で、早い話がおもしろくなかった。僕はワインの酔いに身を任せるままに健やかな眠りについて しまったのだ。

 第一幕が終わって、場内が騒々しくなった。僕は、コージを見つめた。目が合った。その目は 僕の気持ちを代弁していた。もう帰ろうか。話は纏まった。

 夜のローマは危険地帯だ。特にテルミニ駅周辺は浮浪者が多く、彼等に睨まれたりしたものな ら、一目散に逃げるしかない。身ぐるみ剥がされて、お尻の危険も命の危険もある。僕らは二人 とはいえ、武器を持たない。急ぎ足でホテルに向かった。

 ホテルで僕らは別れ、各々の部屋に入っていった。明日は9時にロビー集合だ。

 部屋はタイル張りで、裸足でぺたぺた歩くには不都合だった。例によって今夜も洗濯だ。靴下 を洗ってしまうと、はくものがなくなり、裸足で動くしかなくなる。風呂上がりの濡れた素足で 靴を履くのも抵抗がある。日本人の僕としては部屋に入るとどうしても靴を脱いでしまいたくな る。一日中歩き回って疲れている足を、一刻も早く開放してやりたくなるのだ。そんなわけで僕 は裸足で部屋をうろつくことになった。なぜうろついたか、下痢だったからだ。特に危ない物を 食べたわけでもないが、とりあえずゆるかった。しかも、部屋のトイレにはトイレットペーパー がなかった。三星で、それはないよなと嘆いてみたものの、裸の僕には支配人を呼び付ける事は できなかった。仕方なくシャワーで洗ったり、持参したトイレットペーパーで用を足したりした。 やはり旅にこれは必需品だ。

 トイレとベッドを何往復かしている間に再び睡魔が現れた。僕は彼に身を委ねた。こうしてロ ーマの休日は終わった。

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