12月7日(日曜日) 盗難事件発生の巻

 やられた。ついにやられた。悔しすぎる。 盗難事件発生。朝起きて、僕は大いに落胆した。荷物を盗まれたのだった。よりによって僕の バッグが盗まれたのだった。電車の棚に置いたバッグが見事に消滅していた。

 田崎真也氏とロマネコンティの畑で撮った写真も、シャトー・パルメで僕を案内してくれた 美女の写真も、シャトーツアーで熱心に説明してくれた田舎娘風の美少女との写真も、 山下姉妹との写真も、トミタさん達との写真も、僕が泊まり歩いたベッドの写真も、 モエ・エ・シャンドン社前でガッツポーズしている写真も、雨のエッフェル塔も、シャトー・ ラ・トゥールのお城マークも、夕焼けに染まるコートドールの斜面も、ああ。 すべてなくなってしまった。ついでに買ったばかりのソムリエナイフもセーターも、雪国も、 正露丸もだ。貴重品以外はすべてなくしてしまっていた。

 貴重品はセーフティー袋に入れてあったので、パスポート、トラベラーズチェック、カード、 帰りの航空チケットは無事だった。財布もお尻のポケットにあり無事だった。

 事の次第はこうだ。まずコージと別れた僕は、ローマ発ニース行きの国際電車の ファーストクラスに乗り込んだ。部屋はコンパートメントになっており、他に乗客はいなかった。 僕は部屋のカーテンを閉めて、電気も消して、他に誰も入ってこれないようにしていた。 僕は今夜で7回目の夜行電車だったので、油断があったのかもしれない。治安の悪いナポリを 無事脱出した事で、気が緩んでいたかもしれない。とにかく、いつも通りに電車に乗ったのだった。

 ただ、誤算もあった。そしてその誤算が僕にとって致命的だったような気がしてならない。 その誤算とは何か。列車の交換だった。僕はこの電車が直接ニースに行くものだと思っていた。 常識から考えてもそうだ。時刻表には、ちゃんとニースまで行くと書いてある。 ところがこの電車よりによって夜中の4時に電車を交換した。ローマからの電車はここ GENOVA駅で交換して、ニースヘは別の電車を用意していると駅員が説明した。 僕は熟睡していたのだ。それを朝の4時に叩き起こされて、むかつきながらもとにかく 眠りたかった。乗換えに30分以上掛かるという。僕は駅の待合室で小さくなって、 時間を待った。駅の案内モニターを見ると、ここからもミラノに行けるようだ。今日は日曜日、 サッカーの日だった。前回パンフレットのミスプリでサッカー観戦ができなかっただけに、 ミラノ行きも悪くないかと思った。コージはミラノのサッカー場に行くはずだった。 そこで再会してもいいかもしれない。しかし、ミラノのサン・シロ・スタジアムは遠かった。 あの距離を再び歩くのかと思うと、寝ぼけ眼の意識でもミラノ行きは決心できなかった。 ここは、当初の計画どおりモナコ公国でカジノで勝って財産を殖やしたいところだ。このまま ニース行きを待とう。

 僕はバッグを抱え、ひたすら電車を待っていた。そう、この時までは しっかり荷物はあったのだ。ようやくホームに入ってきた電車に乗り込んだ。ここからだと およそ3時間でモナコだろう。そんな油断もあった。この電車でも僕はファーストクラスに 乗り込んだ。まだ外は薄暗い。電車内も暗かった。僕は適当に禁煙席に入った。先客がいた。 中年のオヤジだった。今思えば、こいつが怪しい。オヤジは旅行者には見えなかった。 先客がいたのなら他の部屋を探すべきだった。しかし、僕は非常に眠りたかった。あと 3時間ばかり寝かしてほしかった。一度ドアを開けた手前、入らないのも変かと思った。 オヤジは3列ずつ向き合うコンパートメントの真ん中の座席に座っており、進行方向に対して 後ろ向きだった。僕はオヤジに会釈して窓側に座った。進行方向側に座った。僕は電車が 動き出す前に、手前の座席のシートをずらして、僕専用のベッドを作り、そこに横になった。 荷物は網棚の上に適当に置いてしまった。

 ここだ。ここに致命的なミスがあったのだ。 僕はちゃんと南京錠の準備もしていた。盗難防止に鍵を用意していたのだ。しかし、 今まで鍵なしでスペインもポルトガルの夜行電車もクリアしてきた自信があった。あと3時間で 目的地に着くこともあって、僕は鍵をしなかった。一度叩き起こされた僕は、なかなか 寝付けなかった。眠いことは眠いのだが、どうもうまく眠れない。何度も寝返りをうっては オヤジの存在も確認していた。何度目かの寝返りのとき、オヤジは、席を移動していた。 通路側の進行方向に座っていたのだ。つまり僕とは座席一つ置いて左隣ということになる。 部屋の電気は消えたままだった。そして僕の寝返りはそれが最後となった。僕は鼾を掻きながら ようやく眠りに就いたのだった。

 僕が目覚めたのは、電車が駅に停車していた時だった。VENTIMIGLIA駅にしばらく 停車していたらしい。サラリーマンが自分の駅で目覚めるのと同じ様に、今までゴトゴトと 動いていた電車が止まったので、目覚めたのだろう。一瞬モナコ駅に着いたかと思ったが、 どうやら違う駅だった。僕ははっとして目覚めた。完全に熟睡していたからだ。そして瞬間的に 網棚に目をやった。なかった。僕のバッグが跡形もなく消えてしまっていた。僕は両サイドの 部屋の網棚も調べたが、当然そんな所にあるわけはなかった。ふたつ隣の部屋には外国人観光客が 何人か喋っていて、彼らの荷物は無事だったようだ。僕は急いで駅員に駆け寄った。僕は駅員に 泥棒に荷物を盗まれたと、怒鳴った。

 しかし、駅員の対応は冷静だった。「そうかそいつは大変だったな。駅に交番があるから そこにいってくれ」だった。何度も車内を探したが、見付からなかった。僕は怒り爆発の 興奮状態のまま電車を降りた。交番はすぐに見付かった。僕の興奮は冷めやらない。

 交番には二人の警察官がいた。彼らの反応も僕を逆上させた。盗まれたものはしょうがないから 諦めろと、彼らは言った。僕は引き下がれず、盗難届の作成を依頼した。盗難届の一つも 貰わないとこの怒りは治まらなかった。彼らは面倒臭そうに書類を探していた。ようやく用紙が 出てきた。僕はまず被害にあった品物を列挙するよう指示された。

 ふと思った。大した物は盗まれていなかった。というより、初めから持っていなかった。 バッグそのものと、衣類と、傘と、フィルムと、後が続かなかった。カメラはベルトに くくり付けていたので無事だった。僕は必死で中身を思い出そうとした。しかし飲みかけの水と 間違って買ってしまったグミキャンディーと洗ったばかりのパンツぐらいしか思い出せなかった。 僕にとってはフィルムが何よりも大切だったのだ。思い出の写真の数々が、一瞬にして 無くなってしまったのだ。だからこんなに動揺しているのだ。品物ならば、また買えばいいが、 写真ばかりはどうしようもない。田崎氏や各国の女性とのツーショット写真は、もう現像されない のだ。悔しさの余りくどくなってきた。話を切り換えよう。

 まず盗まれなくて良かった物を書こう。何と言っても貴重品だ。パスポートがなくなれば、 即時旅を中断せざるを得なくなる。パスポートがなければ、トラベラーズチェックの両替はおろか、 ホテルにさえ泊まれない可能性がある。それに第一飛行機に乗ることができない。再発行の 手続きには、時間も必要だし、大使館や領事館に直行しなければならない。これほど面倒な ことはない。幸いパスポートは無事だった。現金も無事だった。カード類もセーフで、 現金がなくてもVISAカードさえあればキャッシングで急場は凌げた。帰りの航空チケットも 無事で、まずは何よりだった。やはり貴重品は腹に巻くか首から下げておけば、置引ぐらいでは びくともしないのだ。

 そして、シャトー・ディケムだ。パリから送って正解だった。11万円という金額もそうだが、 30年前のワインが早々手にはいるとも限らない。あとは割れずに無事我が家に辿り着くことを 祈ろう。

 次に盗まれて悔しいが、被害が少なかったものについて書こう。筆頭は爪切りだろう。 僕は2日前のローマのホテルで手足の爪は切っていたのだ。結構爪は伸びるものだ。伸びた爪は 間にゴミや垢が入り汚らしい。言葉に不自由な旅では、ボディランゲージと同様、筆談も大いに 役立つのだ。筆談は当然指を使う。指がきたないとそれだけで恥ずかしいものだ。爪は綺麗に 切っておきたいところだ。しかも爪が長いと手に苛々を覚え、集中力も欠いた。この旅もあと 1週間、どうやら爪の心配はいらなかった。パンツと靴下も毎日洗えば、問題ない。夜行は 今夜を残すのみだから、必ずホテルに泊まるのだ。ホテルですっぽんぽんになって洗えば、 毎日洗い立ての下着をはくことができるぞ。トイレットペーパーが無くなったのは痛いが、 これもホテルかカジノで調達できるだろう。衣類も今着ているものしかなくなったが、寒ければ また買えば良かろう。薬類が無いのも下痢気味には応えるが、今のところ大丈夫だろう。 水分の取り過ぎに注意して、寝冷えに気をつけよう。雨が降ったら新聞でも買って傘の代わりに すればいいし、ガイドブックがなくても日本人と友達になれば情報は得られるだろう。

 まあ、フィルムを除けば皆盗まれてもいい物ばかりだ。盗人よ。今後はもう少し中身の詰まった バッグを盗むように。まだまだ修行が足りないぞ。

 ところで警察官は、盗まれた状況についても記述しろと言ってきた。僕は事情聴取に 非常に幼稚な英語で状況を記述した。途中でスペルが分からなくなり、警察官に 教えてもらったりした。今思うに、これは日本語で記述したほうが、より正確に伝えられたと 思うのだが、動揺していたために、英語での説明になってしまった。警察官の説明によると、 この調書は日本大使館に送るという。保険に入っていれば、これで保証されるとアドバイスを受けた。 僕は海外旅行傷害保険には入っていた。早速、帰国後請求しよう。

 用件が済むと警察官は、通常の任務に戻り、僕は一人になった。ここはどこだろうか。 イタリアらしいのだが、時刻表もなくしていたので、さっぱり地理が掴めなかった。 売店の女性に聞くと、もうすぐ国境だという。ということは、モナコにも近いということだ。

 実際モナコは近かった。ものの30分でモンテカルロに到着した。ひとまず盗難事件は おしまいにして、モナコを楽しもう。

 モナコは2度目だった。そして今回の旅の6か国目の訪問国だった。F1あり、WRCあり、 カジノあり、そして故グレース・ケリー王妃だろう。やはり、モナコは世界中の億万長者が 集まる街だと思う。実際にこの街を歩くと高級感が肌に伝わってくる。だから僕も 呼ばれてはいないが、一応集まった。これで一流の仲間入りだ。

 丘の上の宮殿で衛兵の交替式を3度も見た。一時間毎に行われる式典は、やはり12時の ものが盛大で良かった。僕はつくづく手ぶらであった。日本人観光客も多かったが、彼らの 荷物を見ると悲しくなってくる。僕よりもはるかに高そうなバッグを、不用心に持っているのだ。 どうして僕のが狙われたのだろう。考えただけで、悔しさが思い出された。ここは気分転換が 必要だ。カジノしかあるまい。場所は知っている。あとは運だけだ。

 僕は宮殿の庭園を散策した。美しい庭園からは海に降りることもできた。僕は打ち寄せる 波をしばらく眺めていた。海の近くで生まれ育った者にとっては、この潮の香りは何とも心を 落ち着かせてくれるものだ。地中海の紺碧の海は、長旅の疲れを癒してくれるはずだった。 というよりも、正直に告白すれば、楽天だけが取り柄の僕でも、さすがに今朝の一件は 落胆を隠しきれず、この海にすがりたい気分だった。

 さて、勝負のときがきたようだ。大学時代は5000円ほど負けている。8年分の利息を 耳を揃えて返して貰おうじゃないか。僕はヨットハーバーに面した食堂でビールとピザで 腹拵えをした。昔から腹が減っては戦はできぬというではないか。まずは腹の減り具合が勝負の 分かれ目なのだ。僕は満腹の腹を擦りながら、カジノへと続く長い坂道を上ったのだった。 勝ちの予感を胸に抱きながら。

 予想通りカジノの前には高級車が止まっている。ロールスロイスが2台。メルセデス、 ポルシェ、フェラーリが1台ずつ。さらに遅れて、ランボルギーニのディアブロが僕の登場と 同時に入ってきた。影に隠れて目立たないが、日産セフィーロも路上駐車中だ。

 僕は、ヨシっと一言噛み締めて、豪華な建物の中に入っていった。入場料30フランを払えば、 本格的なルーレットが楽しめるそうだが、タキシードを持たない僕は、入場無料の スロットマシンで勝負することにした。400フランを1フラン硬貨に両替していざ、勝負だ。 大混雑する店内は、敗者ばかりだった。コインがジャンジャン出てくるあの威勢のいい音は なかなか聞こえてこなかった。僕もあっという間に彼らの仲間になっていた。これでは イカンと思い、勝負をポーカーマシーンに変更した。ルールはワンチャンス、ツーペアーで ドロー、スリーカードで倍だった。ワンペアだけでは、ブタと同じだった。僕は最初苦戦したが、 絵札のワンペアならばドローになることが分かり、徐々にイーブンに持ち直していった。 絵札がそろっていれば、スリーカード狙いで、勝ちが読めた。一度に5フランまで勝負できるので、 波に乗ったと閃いた時は、大勝負に出た。フラッシュやストレートを狙った。ボタンを 押す手にも馴れが出てくると、格好のいいものである。

 僕は勝ち負けを繰り返し、一喜一憂した。スリーカード何ぞが出た日にゃ、小躍りして拳を 握り締めたものだった。しかし、よくよく考えて見れば、ギャンブルは胴元が勝つように なっているのだ。そうでなければ、これほどまでの豪邸が立つわけがない。日本のパチンコ屋の 比ではない。迎賓館のようでもあり、宮殿のようでもある。これを維持管理するためには莫大な 資金が必要だろう。その資金源がこのスロットマシンやポーカーなのだ。よくよく考えると、 このポーカーも勝率が低い。勝つためにはいつやめるべきかを考える必要がありそうだ。 ブラックジャックならば、残りのカードと相手との駆け引きで、相手にもう一枚のカードを 引かせたり、ためらわせたりして、その場に流れを呼び込むことはできる。しかし今は機械相手の ワンチャンスポーカーだ。完全に相手のペースに合わせられている。フォーカードの確率は 今までのところ、100回に1度あればいいほうだ。フルハウスやフラッシュの確率もかなり 低めの設定だ。例えばフォーカードは25倍なので、5枚掛けの勝ち分は125枚だ。 次のフォーカードはあと100回分待たなくてはならない。2度目の勝ちを呼ぶのに、儲けを 全て掃き出すことになる。1枚ずつ掛けても出るかどうか分からない。例え運よくフォーカードを 引き当てても、1枚掛けでは25枚にしかならない。25枚では5枚掛けは5回分でしかない。 ちょっと分かりにくいが、このポーカーで勝つためには、大きく勝って小さく 負け続けるのではなく、大きく勝ったらすぐに止めるべきなのだろう。

 勝負は引き際が肝心だ。

 1枚ずつ掛けていたのでは、勝ちも小さく、5枚ずつ掛けていては、コインもあっという間に 底をつく。機械にはそれぞれ癖があるだろう。ストレート系、フラッシュ系、アンコ系、 などだ。出目の確率も設定を変えているだろうから、そこを見極める必要がありそうだ。機械を よく知ってこそ、勝利の女神は僕に微笑むのだろう。一見さんでは駄目だ。

 ということで、僕も今回は機械の研究にとどめることとなった。なんだかんだと言って 3時間以上も9000円で楽しめたのだから、エンターテイメントとしては悪くないだろう。 大学時代の分と合わせて14000円はしばらく貸しておくことにしよう。なんだか 言い訳がましくなってきたので、外に出た。

 外はすでに日が落ちていて、街角の巨大なクリスマスツリーが赤々と光り輝いていた。カジノや ホテルがライトアップされ、ハイソサイエティなモナコの夜を彩っていた。男らしく負けを認めて、 この街を出よう。隣のニースからはヴェネツィア行きの夜行電車が出ていた。その電車は モナコにも止まるが、始発から乗ったほうが自分の好きな席に座れそうだ。しかも寒くなった モナコの街では、暖をとる場所がなかった。カジノでフランの紙幣を使い切っており、 40フラン分の小銭しか持っていなかったからだ。ついつい勝負ごとは全額掛けてしまう癖が 出ていた。800円では、まともな食事も取れそうにない。失敗したと思ったが、こてんぱんに 負けたほうが、気持ちが清々してよいのだ。

 電車の中ならば暖がとれるが、ニースは7つ目だったので、すぐに下車することとなった。 さて、電車までの約2時間やることがない。ニースといえば、海岸だろうが、すでに真っ暗の 街では、動きようもなかった。寒さも増してきた。僕は手ぶらなので、重ね着の荒技は できなかった。フランの持ち合わせもなく、古着の一枚も買うことはできなかった。それでも ミュンヘンの寒さに比べれば、ここはまだ秋の気配だ。大袈裟に寒がる必要もないだろう。しかし、 小腹は空いていた。ヨーロッパに来て以来、胃が小さくなったようで、特に腹一杯食べたいという 感覚はなくなっていたが、今日も昼のピザしか食べていなく、何かおなかに入れたいところだった。 駅前に中華系の食堂があった。そういえば、今回の旅では中華料理は食べていなかった。 ヨーロッパ中にチャイナタウンはあったが、そろそろ中華もいいかもしれない。僕は外から メニューを眺めたが、どれも予算が合わなかった。仕方なく諦めかけていると、テイクアウトの サンドウィッチと目が合った。中華料理が挟まれた何とも旨そうなパンだった。18フランだった。 予算内だった。本当なら暖かい店内で食べたいところだが、店内では2フラン余計にとられるので、 今夜の車内での楽しみにすることにした。

 さて、今夜の電車が最後の長距離移動だ。ユーレールパスの有効期限が明日までだったからだ。 時刻表もなくなっていたが、今夜の電車は事前にチェックしていたので、問題はなかった。 明朝ヴェネツィアに着いて、そのあとはイタリアの北部の都市を順繰りに巡ろう。ローカル電車に 乗れば、電車代もそんなに掛からないはずだ。電車代は掛からないが、宿代は掛かりそうだ。 夜行電車で一泊分浮かすこともできないし、手ぶらでは不審者として怪しまれたりしないだろうか 心配だ。とにかくこの旅もあと一週間だ。無事を祈ろう。

 ニース駅は始発だけあって出発の1時間前から乗車することができた。しかも、 ファーストクラスのこの禁煙車両には、僕のほかに客は居なかった。僕はだれも居ない客車に 一人横になって静かに出発の時を待ったのだった。

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