12月9日(火曜日) ヴェネツィアからボロー二ャへの巻

 朝テレビを点けると、釣りキチ三平とキャッツアイを放送していた。僕は寝ぼけ眼でこれらの 日本アニメを見ていたが、途中で腹が減っていることに気が付いた。このホテルには朝食が ついていた。僕はテレビを消して身支度を整えてから、ロビーに降りて行った。カプチーノと クロワッサンのいつもの朝食だった。パンには今まで何もつけていなかったが、栄養の事も考えて、 蜂蜜とバターを多めにぬって食べた。不測の事態で役に立たなかった場合、男として情けない。 ここはきっちり栄養分を取り入れよう。朝食を食べなから 今日の予定を練った。すでに時刻表は なかったが、イタリア国内ならば、各都市2時間くらいで行けるだろう。今日ボローニャに行って、 明日フィレンツェ、あさってモデナ、その次の日にパルマに寄ってからミラノに泊まれば、13日に 山下姉妹と合流できた。それにしよう。ボローニャではモーターショーを開催しているはずだ。 午前中ヴェネツィアの残りを散策して、午後のボローニャ行きを決定した。

 予定が決まれば善は急げだ。

 僕は昨日とは反対回りに街を歩き出した。駅を過ぎると、商店街が賑やかだった。出店が多数 出ていて、野菜や魚を威勢良く売っていた。古着から絵葉書までいろいろあって活気に溢れていた。 僕はここで立ち止まって野菜を見た。形も不揃いで汚かった。しかし、これが本当の野菜の 姿なのだろう。日本では、何かがぬられているのか果物には光沢があり、ラップで綺麗に 包装されている。目方もカロリーも表示されていたりする。僕も一人暮らしをしていた頃は、 同じ買うなら見た目のいい方を選んでいた。この市場では、見た目のいい物は一つもなかった。 大きさもまちまちで、ドロもついていそうだった。まさに今畑から収穫してきたばかりのようだった。 これが普通なのだ。これが自然の恵みなのだと思った。余りじろじろ見ているとオヤジに 買わされそうなので、僕は再び歩き出した。

 商店街は奥に行くほど観光客相手の店になっていった。ヴェネツィアングラスやガラス細工の店が 軒を連ねていた。お土産に最適だとも思うが、手ぶら旅にはガラスなどの割れ物は危険だった。 第一入れる袋がない。このためにわざわざバッグを買うのも勿体ないように思われた。しかも 僕の妹もイタリアには旅行していたので、ガラス細工は家に飾ってあった。女性にプレゼントとして 贈りたくもあったが、ミラノで出発直前に買ったほうが、旅の邪魔にならずに済みそうだった。 そんなわけで見学だけと心に決めていたが、やはり見れば欲しくなる。僕は暇に任せてあちこちの店を 見て回った。時計屋で足が止まった。その店はまだ開店していなかったが、ショーウィンドーの 安い時計が気になって仕方なかった。戻るときに開いていたら買ってもいいと思った。正確にいえば、 開店の時間を待っていたともいえる。僕はよその店を回りながらもあの時計のことで頭が一杯だった。 盗難の後遺症を払拭するには新しい時を刻む機械が必要だった。やはり買おう。時計ならば 荷物にならない。手に嵌めるだけだ。店に慌てて戻ると、すでに開いていて、僕は店員を呼んで その時計を指差した。いわゆるスケルトンと呼ばれる透明な時計だった。時計の中身が全て 透けて見える時計だ。ネジも電池も、時計の仕組みがはっきりと分かる。この時計は以前から 欲しかったのだが、なかなか日本で見掛けなかった。僕は新しい時計を身に付けた。日本円で 5000円もしない安物の時計だが、その透明な仕掛けが僕を大いに安らかにさせた。 新しい時計というのは気分転換に最適だ。すぐに時間を確かめたくなって、なぜか浮き浮きする。 5分も経たないうちに何度もみたりして、旅のアクセントとしては最高だと思った。また何か 不測の事態が起きて、憂鬱になったら時計を買うことにしよう。

 ちなみにこのスケルトン時計を、僕は今は持っていない。帰国後、新年の飲み会の席で、 友達のお嬢さんにプレゼントしたからだ。僕が持っているより、高校生の彼女が 持っていてくれたほうが、格好がいいだろう。彼女も気にいってくれた様子で、高校生の友達が できたようでこちらとしても嬉しい限りだ。誤解を避けて一筆書けば、別に援助交際とは関係がない。 僕の友達の娘さんだから、とても清いのだ。とにかく時計を人にあげるのも、 これまた不思議な感覚で刺激的だ。

 新しい時計も手に入れ、サンマルコ広場へ向かった。ここは、この街最大の観光地らしく、 日本人観光客が鳩と同じ位たくさんいた。映画館でも、水上バスでも会わなかった日本人は ここにいたのだった。それにしても鳩の数が凄い。広場の鳩が一斉に飛び立つと恐怖だ。 こちらに向かって飛んでくる鳩を避けようとすると逆に当たりそうだ。どうやら鳩に餌を与える 観光客がいるのだ。ここは鳩の楽園となっているようだ。僕は逃げ出すように広場から離れた。 少し歩くと外国人観光客が橋の上で記念撮影をしていた。そう言えば、写真の数がめっきり 減っていた。盗難事件前は美女とのツーショットに燃えていたが、あの日以来すっかり写真に 興味が持てなくなっていた。ここヴェネツィアでも写真は撮っていなかった。髭も剃って 綺麗になったことだし、僕もここに来た証拠に一枚撮ってもらおうと思った。橋の上で シャッターを押してもらったが、後日出来上がった写真を見て驚いた。有名な溜め息橋だったからだ。 そんな有名スポットとは露知らず、僕は久し振りのファインダーに納まったのだった。

 そろそろボロー二ャに向かおうと思った。今日中にモーターショーを見ておけば、明日からの 日程にゆとりが持てる。僕は駅へと向かった。駅では切符の自動販売機で、切符を購入した。 こちらの自動販売機は、目的地までの到着時刻も表示されるので便利だが、紙幣の状態に因っては 読み込めずに、売店でチョコなどを買って紙幣を交換しなくてはならなかったりする。 時刻表はなくても、機械を操作することで目的地になんとか到着できるものである。

 ローカル電車に乗ってボロー二ャに着くと、日も落ちかけていた。すぐに宿を決めて モーターショーに行かなければ、僕は少し焦り気味に観光案内所に入っていった。案内所で 市内地図とホテルのリストを貰った。どうやら安宿は街の中心にはないようだ。ニ星クラスでも かなり歩かなければならなかった。僕はなぜだか疲れていた。食事は朝だけで、電車の中で クッキーと水を飲んだだけだったからか、それとも午前中にヴェネツィアの街を 歩き過ぎていたからか。疲れが安易な妥協を誘っていた。ホテルも近いところにしようと。 多少料金が高くてもこの疲れを癒すのが先決だと、左足にできた豆が言っていた。

 僕は妥協した。僕が訪ねたホテルにはシングルの設定がなかった。ダブルで1万リラという。 僕はダブルには泊まらない決意を思い出したが、今回だけ例外にしよう。ここを断ると再びかなりの 距離を歩かなければならない。そうすれば、モーターショーに間に合わない。こうして僕の妥協は あっけないくらい素直に認められたのだった。

 ホテルでは荷物がないのを不信がられたが、夜行電車での一件を英語で説明すると、主人も 同情してくれた。僕は急いで駅に向かった。駅からモーターショーの会場行きのバスが 出ていたからだ。時間も時間だった。駅で貰ったパンフレットによると、夜7時の閉店時間まで あと2時間余りだった。バスは空いていた、と言うより僕一人だった。運転手は青年で、 イタリア語しか喋らなかった。そして悲しい事に彼の話すイタリア語は僕には全く理解できなかった。 英語で問い直しても要領を得ない。僕らはしばらく沈黙を守ったが、運転手が妥協して、バスは 会場に向けて出発した。これは後日理解した事だが、運転手はバス代について話していたようだ。 イタリアではバスは事前に煙草屋などで切符を買ってから乗車することになっていたのだ。バスの 中ではバス代は払えない。不便だが、そういうルールなら仕方がない。ただ僕はそのバスを モーターショーの無料送迎バスだと勘違いしていたし、バスに乗るのはイタリアでは 始めてだったのだ。まあとにかく僕は無料でモーターショーに乗り付けたのだった。入場券売り場は 空いていた。こんな終り間際にやってくる客は僕しかいないらしい。帰る客は止めどもなく やって来た。僕は流れに逆走するように、第22回ボローニャ・モーターショーの会場に入場した。

 僕はこのモーターショーを誤解していたのかもしれない。僕は2年に一度の東京モーターショーは よく幕張に見にいっていた。東京モーターショーでは、車よりもミニスカートやボディコンの 女性たちに興味があった。コンパニオンのスカートの中身が見えた日にゃその喜び様は大変だった。 その乗りで、僕はボローニャに行っていた。心のトキメキを押さえながら僕は、女性を探した。 しかし、ミニスカートの女性は一人もいなかった。女性は事務服を着ていた。または繋ぎの作業服を 着ていた。なんだこれ。これが僕の感想だった。話が違うと思った。イタリアの美少女をカメラに 収めようとフィルムまで買って準備していたのに、僕の思惑はものの見事に外れたのだった。 女性たちは昼休みの日本のOLたちのように楽しく会話して盛り上がっていた。お客の相手よりも、 仲間内の会話のほうが大事なようだった。各コーナーでは、レーシングマシーンや バーチャルリアリティを駆使したテレビゲームなどのアトラクションがあったが、お客よりも 関係者が楽しんでいるようにしか見えなかった。僕はがっかりした。僕もアトラクションへの参加を 申し出たが、何かの券が必要らしく、僕はただ指を咥えて見るばかりだった。もう少しイタリア語が 話せれば、交渉もできただろうに残念だ。僕が入場した時間が遅かったせいか、屋外の レースコーナーやライブハウスはすでに終わっていた。

 車の展示についても僕を失望させた。普通のモーターショーにはコンセプトというものがある。 例えば地球環境との調和だったり、ハイブリッドだったり、スピードだったりするわけだ。 ところがボロー二ャでは各メーカーの販売店を一か所に集めたような、市販車の展示会だった。 中にはフィアット社のように展示車撮影禁止のブースもあった。僕も昔スーパーカーブームの時は、 カメラを持って東海大学園祭の展示会に自転車こいで参加したものだ。子供達に夢を与えたり、 購買意欲を掻き立てたりするのが、モーターショーの目的だと思っていた。それなのに市販の 大衆車が撮影できないのだ。まあ大衆車だから、撮影禁止でも大勢に影響はないのかもしれないが。

 スマート社に珍しい二人乗りの車があった。黄色の車体は高く、短かった。ずんぐりむっくりの その車は可愛らしく、おもちゃのようでもあった。日本には輸出されていないようだが、 ここヨーロッパでは映画館でも宣伝されていた。このホンダのオデッセイを無理やり 二人乗りにした車に、一人の女性が試乗して関係者にいろいろ質問していた。年の頃なら30代後半 だろうか。彼女は開襟のシャツを着ていて、前屈みの姿勢からその大きな胸がはみでていた。 これはでかかった。色白の肌が、むき出しになっていて、僕は思わず乳頭を探してしまった。 しかし残念ながらぎりぎりのところでブラジャーに保護されているようだ。彼女は長時間掛けて 質問していた。熱心に説明を聞く彼女には、胸がはだけていることに気が付いていない様子だ。 僕も車を見る振りをして、様々な角度から彼女の胸を見た。見事な胸だった。この胸は写真に 撮らなければ、後悔するだろう。せっかくだから僕も一緒に写ろうと思った。係員を呼んで シャッターを押して貰ったが、誠に残念ながら彼女の胸は写っていなかった。

 フェラーリ社のブースは独立した建物だった。そしてそこには車が展示されていなかった。 ディスコだった。車のないブースは妙な盛り上がりを見せ、電光色と大音響の部屋に男ばかりが 踊っていた。一段高いカウンターにコンパニオンが3人いた。ようやく出会えたかと感激した。 彼女たちはリズムに合わせて愛想良くフェラーリ特製ステッカーを配っていた。ここは モーターショーのはずだ。全くフェラーリのやることは理解できない。

 その点ライバルのランボルギーニ社はシンプルだった。ディアブロが3台置いてあるだけの 簡単なブースだった。イタリアを代表する両者のモーターショーへの取り組み方の違いに、 興味をそそられるところだ。

 会場は広大な敷地にあった。これだけの土地は、なかなか用意できないだろうから、おそらく モーターショーもここボローニャだけの開催なのだろう。

 時間が6時を回った。あと1時間かと思っていると、あちこちのブースで車にシートを掛け始めた。 隣の建物では鍵を掛けているところもある。少し変だと思った。僕はパンフレットを取り出した。 僕の勘違いだった。平日は午後6時までとある。最終日とその前日だけが7時まで延長されるらしい。 僕は帰らざるを得ないようだった。

 帰りのバスは満員だった。僕は再びただで乗車した。運転手から遠い場所に立って駅まで向かった。 バスが動き始めると、僕の周辺が少し広がった。みると、右の二の腕から血を流している青年が、 立っていたのだ。かなりの傷だ。10センチくらい縦に切られている。どうやら出血は 止まっているようだ。はじめはケチャップか何かと思っていたが、冗談ではなく、本物の 血のようだった。本物の血を見るのは久し振りだ。余り気持ちのいい光景ではない。はやく バスを降りて、ホテルに戻ったほうが良さそうだ。運賃も払っていないことだし、ここは撤収しよう。

 ボロー二ャはオペラ歌劇団で有名だが、換えの服を持たない僕には無縁のようだった。オペラは 最終日のミラノまでとっておこう。ミラノで思い切りお洒落をして颯爽とスカラ座へ乗り込もう。

 夕食は駅前のスタンドでサンドウィッチを二つばかり買って、ホテルの部屋で食べた。宿代に 予算を取られた夜は、この位の質素な食事のほうが落ち着くものだ。ホテルでビールを何杯か飲んで、 日記をシャンパン見学あたりまで書き綴った。そして特に何もないままに眠ったのだった。

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