12月11日(木曜日) フェラーリの街で眠るの巻

 朝起きると小雨だった。僕はチェックアウトする時は必ずベッドにチップを置いてきたが、 この日ばかりはチップはなしにした。その代わりに大人気ないと思ったが、「盗むな、こら」 のメモ書を置いてきた。僕の細やかな抵抗だった。

 ヨーロッパは階級社会だ。ベッドメイキングをする人達の身分はやはり低いのだろう。彼らも ホテルから給料は貰っているが、やはりそれだけでは生活も苦しかろう。ヨーロッパの失業率は高く、 給料がいいとは思えない。客のチップが、彼らの生活を支えているのかもしれない。一回のチップは 100円だとしても、10回で1000円、100部屋で1万円になるだろう。これは大きい。 僕の考えではホテルでの対価の代償は別々だ。ホテルの料金は経営者に、チップはベッドメーカーに 支払われるものと考えている。僕がベッドメーカーだったら、チップの目標額に仕事に張り合いを 持つだろう。チップがあれば気持ち良く仕事ができるし、なければがっかりだ。僕は常に額は 少ないが、チップを枕元に置いてきていた。これからもチップの考え方は変わらないと思うが、 この日ばかりは、びた一文余計な金は払えなかった。

 僕は小雨のフィレンツェを歩いたが、時間もまだ早くブティックの開いていないこの街では時間も 潰せなかった。モデナに急ごう。モデナにはフェラーリの本社があり、博物館もあった。

 電車は1時間以上も遅れていた。駅の待合室で僕は再び日記を書き始めた。僕は昨夜、 ヴェッキオ橋付近の文房具屋で1万リラもするノートを買っていたのだ。レオナルド・ダ・ ヴィンチの人体模型の絵があしらわれているハードカバーのB6サイズのしっかりしたノートだった。 B6ならばポケットにはいるし、記念にもなるだろう。昨日の出来事も記録すべきだと開き直って、 三度日記を付けはじめたのだ。

 電車はインターシティという格好のいい特急だった。車内ではお菓子のサービスがあり、さながら 線路を走る飛行機のようだった。ポローニャで各駅電車に乗り換えた。混雑する電車に乗り込んで、 出発を待っていると、僕は一人の女性に声を掛けられた。彼女はイタリア語で「隣空いていますか」 と聞いてきた。僕は軽く会釈して「ええ空いてます」イタリア語で答えた。ただそれだけの 会話だったが、僕の横に座った女性を見ながら、僕は何ともいえない気分に浸った。他にも乗客は たくさんいるのに、よりによって僕に話し掛けてきたのだ。旅ではなく生活の匂いがした。 各駅停車に乗るのは、地元の人ばかりなのだろう。彼らの仲間入りができたようで、嬉しくなる。

 電車はモデナについた。モデナからはバスに乗るはずだった。僕はこの街の情報を全く 持っていなかった。フェラーリ本社の最寄り駅ということしか知らなかった。無謀だと思ったが、 何とかなるだろう。

 僕は駅で聞いた情報をもとに7番のバスに乗り込んだ。フェラーリに着けば運転手が 教えてくれるだろう。僕は乗車時にフェラーリを連呼していたのだから。ところが、運転手は僕を 忘れていた。バスが終点までいっても僕は乗ったままだったのだ。運転手と目が合った。 20代前半の彼は英語を話さなかった。僕はフェラーリしか言えなかった。僕の目が彼に 通じたのだろう。あるバス停に着くと彼はバスを降りて、僕の手を取り、フェラーリ行きのバス停まで 案内してくれた。どうやら僕が乗っていたのは市内循環バスで、フェラーリへは長距離バスに 乗り換えなければいけないらしい。彼がバス会社の窓口で交渉してくれた。どうやら5分後に 2番線から出るらしい事が分かった。僕が礼を言うと、彼は走って自分のバスに戻っていった。 親切な青年だった。

 バスは30分以上も走って隣町に入った。今度は運転手も僕に合図をしてくれて無事にフェラーリ 本社前で降りることができた。日は暮れて、遠くからF1のエグゾーストノートが聞こえてきた。 ついにこの街にやってきたのだ。フェラーリ本社で博物館の場所を聞いて、順調にガレリア・ フェラーリに到着した。

 博物館は2階建てで10台以上の車が展示されていた。創業当時の車から最新のF1カーまで、 憧れの車の数々が所せましと並べられていた。フェラーリ・レッドと呼ばれる赤い塗装が何とも 美しい。走るために生まれて来た車は、再びエンジンに火が点るのを静かに時を待つかのようだった。 売店ではフェラーリグッズを売っている。その中で真っ赤なシャツが日に留まったが、この赤も この街だからこそ光るのであって渋谷の街では恥ずかしくて着れない色だ。洗濯しても色落ち しそうだ。フェラーリ・レッドの誘惑を振り切るべきだ。手ぶら旅に荷物は必要ないのだから。 ガレリア・フェラーリの横にはショップがあった。僕は記念にシールを二枚だけ買って、さらに隣の BARでビールを飲んだ。BARの青年店長は、日本人の友人がたくさんいるらしく、ビールを 飲みながらしばし友達の自慢話を聞いていた。次に訪れた日本人に僕の事も紹介してくれたら、 楽しい事だろう。

 BARでバスのチケット売り場を教えてもらい、いわれた通り教会のほうへ歩いていった。教会の 前に、食堂と煙草屋を兼ねたホテルがあった。そういえば今夜の宿がない。これから無理してモデナの 街に戻って、宿を捜すのも面倒だ。ここで一泊しよう。僕はバスのチケットを手にいれてから、 ホテルに向かった。シングルで階段の下の部屋なら4000円でいいという。僕はどんな部屋でも 構わなかったので、即決した。確かに階段の下で天井が斜めだったが、シャワーも石鹸もテレビも あった。やはり宿は田舎に限る。都会ではテレビがあるだけで2000円は高いからだ。

 宿が決まって食事をしようかと思ったが、ホテルの食堂は夜7時からだという。あと1時間もある。 街に出れば、何かあるだろうと思って外に出たが、何もなかった。唯一デリバリーピザ屋が あったので、中に入ってみた。見るとちゃんとテーブルもありそこで食べられるようになっている。 僕はミックスピザとコーラを注文して、店内で食べることにした。ひっきりなしにピザのデリバリーの 注文がきて落ち着かなかったが、味はまずまずだった。スーパーでイタリアのワインのバローロと チョコレートとビスケットを買って、部屋で寛ぐことにした。フェラーリの街で味わうワインは 格別だった。

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