自然派の逆襲 その2  2004/07/09
 
 前回、自然派の逆襲について触れてみたが、今回はその第二弾として、ひとつふたつ。

 先日、某所で自然派ワインの試飲会に参加し、南フランスの某有名ワイン生産者のうち、酸化防止剤未使用ワインの赤・白・ロゼを比較試飲した。醸造段階はもちろんのことボトリング時まで酸化防止剤を使用していないワインということで、どんな味わいなのか興味津々だった・・・。その結果は、しかし・・・・。

 抜栓したすべてのワインが微発泡または発泡していて、あるボトルからは抜栓直後から不快な臭いが立ち込め、およそ正常なワインとしては認められない趣に参加者の目はたじろぐばかりだった。生産者の意図しない瓶内二次発酵、または瓶内腐敗が始まってしまっている・・・。時間と共に還元臭や腐敗臭は影を潜めつつ、何とか飲めないこともないが、明らかに醸造上の欠陥と認定すべし味わいに、試飲会は中断を余儀なくされたのだった。グラスを口元に運ぼうとすると、我が細胞の一部がそれを拒否するのだ。

 飲めないワインを数本テーブルに並べながら、ふと、こんなことを思った。

 「ワインを造る苦労や哲学が、消費者の目前で断絶している」、と。

 一年に一回しか実をつけない葡萄を使ってのワイン造りには、並々ならぬ苦労と、理想を追求する哲学がある。そしてワインとして消費者のテーブルに並ぶまでには相当の歳月とコストがかかっており、一本のワインに携る人々の苦労を思う時、消費者が、腐敗またはそれに近い状態のワインを口に運ぶ空しさを禁じえないのだ。

 酸化防止剤を排除する自然派の理想は十分共感するところだが、それは消費者の口に入って初めて完成するものと思う。酸化防止剤の功罪を認めたうえで、未添加を貫いたワインは、残念ながら某所のテーブル上においては、ワインとしての性質が欠如し、腐敗した液体となってしまっていた。腐敗と発酵は同じ現象である。これを無念と言わずしてなんと言おうかである。

 造り手と膝を交えて話すほどに、ワイン造りの苦労に共感し、その哲学を日本の食卓で紹介したいという願望が芽生えながらも、高温多湿の日本という、地球の裏側で消費することを考えると、最低限の酸化防止剤の添加は、やむを得ないと思わずにはいられない。未添加ワインで不味いワインを飲むたびに、そう思わざるを得ないのだ。

 人はなぜにワインだけにそんなにシビアになるのだろう。

 酸化防止剤云々、ワインの点数云々・・・。

 本来腐りやすい葡萄の保存飲料という立場にあったワインが、その本分を離れようとする時、人とワインの係わり合いに微妙な変化をもたらし、その程度の量では、人体に影響がないことが証明されている酸化防止剤を拒否する動きには、一消費者として、ちょっと待ったといわなければならないと思うのだ。

 ワインは健康的に美味しく飲みたい。

 過度の理想の追求は、せっかくのワインを台無しにしかねず、それに携ったすべての人の苦労を無駄にもしかねない。そして消費者の生命にも関わることであり、自然派の理念を大きく頓挫させることになるのではなかろうか。せっかくのワインが腐敗していた時、なんともやるせない気分になるのは、空梅雨の日本の気候のせいばかりとも言えないような気がするのだった。

 自然派のワインは今後も注目していきたいと思いつつ、一度腐敗したワインの香りをかいでしまうと、ちょっとした抵抗感が芽生えるのは、なんともかんともと思いつつ、また新たなる一本にソムリエナイフを当てることだろう。


おしまい


 (ちなみにインポータと取り扱いの酒屋さんは品質に関して日本屈指のレベルにあり、リーファー管理された輸送はフランスまで追跡調査が可能なほどであり、彼らには全く責めがないと思われる)


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