にっぽんハッピーワイン


 ハッピーワインとは何か


 谷崎潤一郎の「春琴抄」は、春琴の没年を記し、その墓地を訪ねるところから物語が始まる。岩井俊二監督作品の映画「LOVE LETTER」は、山で死んだ藤井樹(いつき)の三周忌を墓前にて供養するシーンから始まる。山崎豊子原作のテレビドラマ「白い巨塔」は志半ばにして斃れた唐沢・財前が、解剖室へ移されるシーンで終わる。

 人は必ず死ぬ。生あるものにとって、死は宿命であり、生前には誰も体験することがない恐怖である。人はそれを意識し始めた時から、死を覚悟し、恐怖に慄き、それでも死ぬことに向かって生き続けなければならない。ある産婦人科医は、死の準備をし、ポジティブに生きることをテーゼとし、またある放送作家は自身の最後の晩餐へのカウントダウンを意識し、食の充実をライフワークにしている。人は、時期こそ未定ながらも確実にやってくる死に脅え、その死を受容しなければならないのである。現に地球上のどこかでは常に戦争状態にあり、人が虫けらのように死んでいく。安全運転の象徴的な存在の通勤列車が横転する事故も発生し、最近は日本のどこかで必ず殺人事件が発生している。毎朝届けられる新聞に訃報欄がないことはなく、ニュース番組は常に誰かの死を報道しているものだ。

 しかし、死は日常生活に溶け込みながらも、時としてどこか他人行儀であったりもする。平和憲法の庇護に育った日本人には、戦争は地球の裏側での出来事と思いがちであり、関東の人間には、福知山線の脱線事故に関係する人たちとの接点も少なめで、彼らの死を己の死に直接関連付けることは少ない。近親者の死に接した者にとって、死は身近な存在であり、しかしそんな状況に、幸いにして遠ざかるほどに、人はその死の必然を意識しなくなる。死は、日常において、非日常化しやすい側面を持ち、しかし誰か(身近であればあるほど)の突然の死によって、それは一気に日常そのものに変貌するのである。死は人を振り回し、時に深刻につきつけ、時におだやかに解放する。

 さて、ハッピーワインである。ハッピーワインとは何か。結論から先に書くならば、読んで字のごとくハッピーなワインのことであり、それは死の恐怖を忘れさせてくれる楽しいワインのことである。少なくともそんなワインを飲んでいる間は、酔いに任せて迫りくる死を背中で受け流し、その恐怖から少なからずとも開放されるワインのことである。ふと意識してしまう死を、そのワインを飲むことによって、生と死との間に隙間をもたらし、死の恐怖を忘れてしまう。そんなワインは日常生活の重要な位置を占め、それを大切な人と共有しあえれば、生への活力にも繋がるものである。

 安くて、おいしくて、毎晩飲める楽しいワイン。

 それがハッピーワインの原点にあり、もしもそれが高価であるならば、日常生活からは遠ざかりがちで、夜毎襲ってくる死への抵抗力が削がれてしまうものである。ハッピーワインであるならば、少なくともその夜は、ハッピーに過ごすことができるのに、である。ハッピーワインは日常生活に溶け込んでいなければならない。常に冷蔵庫で冷やされていなければならない。食卓を囲んだ人々と、楽しい食事のお供に、ハッピーワインがあったら、とてもうれしい。ワインの香や味わいについてのコメントや点数を出しあうのではなく、ワイワイガヤガヤ楽しい食卓においしいワインがあってくれたら、それだけでいいと思う。

 「あれ。これおいしいね。日本のワインなんだね。」

 そんな会話が愛する人から発せられるなら、自身の人生を悔いることからも、死の恐怖に脅えることからも、少しばかり開放されるではないか。それこそがハッピーワイン。おいしいと思った瞬間に、ワインに対する好奇心が生まれ、そのワインについて知りたくなってくる。そしてそのワインは、日本人が造っていて、その気になれば次の休日に本人に会ってその感激を伝えることもでき、さらにその気になれば、一緒に畑に出ることもでき、ワイン造りのお手伝いもすることができる。

 ワインは出会いの架け橋になるお酒であり、異性同士がグラスを傾ける姿も美しいものである。ただ酔うために飲むのではないワインというお酒の魅力をハッピーに、共有できたら素敵であり、そんなワインは日本の大地からも生まれていることに早く気づくべきであろう。

 おいしいから次にも飲みたくなり、安いから次にも飲める。ハッピーワインってすばらしい。

 ところで、ハッピーワインとは対極にあるものに、ブルゴーニュの銘醸ワインがあることも記しておかなければならない。ブルゴーニュの銘醸ワインと日本のハッピーワインは何が違うか。

 それは、ずばり・・・・

 
つづく





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