11月23日(日曜日) ミラノ 「最後の晩餐」の巻

 朝7時ごろに起きたと思ったが辺りはまだ暗くもう少し眠ることにした。二つのベッドの片方だけで 寝るのも寂しい限りだ。次からはシングルにこだわろう。ドッピアを使うときは、その色恋沙汰が あるときに限ろう。あればいいな。

 部屋は通りに面していたので町の様子が良く見えた。商店が開いてから出掛けようと思ったが なかなかオープンしていない。シャワーでも浴びるかと思ったが、今夜は部屋替えもあるし、濡れた タオルの置き場にも困るので少し汚いと思ったが今夜の楽しみに残すことにした。 荷物を整え一旦部屋を出た。受付には昨夜のご婦人ではなく青年が座って居た。昨夜の事情を話すと それについては了解しているとの返事を貰った。12時すぎに部屋を換えてくれるのでそれ以降に 戻ってくれば良いとのことだった。

 中央駅のインフォメーションに行くがこの案内所は電車に関する事だけだと言う。観光案内は出て 右側にあると言われて探したがなかなか見付からなかった。駅を出たりなんだかんだと探したあげく 確かに右側の路地を入ったところにあった。相手のイタリア語をなんとなく理解できた自分に少し 満足だ。観光案内所では中年男性が一人で事務をしている。地図を貰い、サッカーやオペラの 予定表を貰った。今日は日曜日。事前の情報によればサッカーがあるはずだ。セリエAだ。 本場のサッカー観戦も今回のメインテーマだ。予定表によれば今日の午後2時半からスタジアムで あるという。これは行くしかあるまい。まだまだ時間はたっぷりある。

 まずはミラノと言えば最後の晩餐だ。 サンタ・マリア・デレ・グラツェ教会 の食堂の壁に描かれているダ・ヴィンチの名作を 何としても見なければ。この絵が今回の旅を決心させたのだから。教会は午後1時過ぎで閉まって しまう。ちょうどサッカーの時間とぴったりではないか。地図を広げ行き方の確認をして地下鉄に 乗り込んだ。地下鉄では4500リラの一日券を買ってしまったらしく、自分でも一日券とは 知らずに買ってしまったのだが、観光客は皆それを買っていたので流れで買ってしまったのだ。 そのときは一回券だと思っていたので運賃400円は高いなと感じながら4つ向こうのドーモ駅まで 乗った。来た電車に乗ったのだが、どちら行きの電車かまでは分からなかったが日本人も多く乗って いたのでこれでいいやという軽い気持ちで乗ってしまった。案の定正解だったが。

 ドーモ駅から 外に出るとそこには当然ながらドーモが立っていた。でかい。ジプシーたちを振り切り記念撮影を 日本人の女性に頼んだ。僕には写真に関してこだわりがあった。写真には極力自分が写ろうという ものだった。建物や風景の写真は絵葉書で買えばいいし、バカチョンカメラならそっちのほうが 画像が断然良いと思う次第だ。また、写真を他人にとってもらうことでコミュニケーションも 計られるからだ。カメラを渡した瞬間に逃げられては困るので、相手は良く選ばなければいけない。 僕の場合は可愛い女性か外国人観光客にしていた。カメラを持っていれば手振れも少ないだろうし、 持ち逃げする事もないだろうし、そこから始まる愛もあるかもしれないし・・・。そういう不純な 理由もあって僕はドーモの写真に納まったのだった。

 ドーモからは広場を背にして右斜めの道を 歩けばいいらしく、地図を片手にあっけないほどドーモは見ずに歩き出した。歩いていて気がついた ことだが、ほとんどの店がシャッターを下ろしている。一部のBARが開いているくらいだ。 そうか。今日は日曜日だ。銀行もお店も休みなのだ。大きなお城の広場を時計回りに四分の一ほど 回って、一路教会を目指した。途中で何度か道を聞いて憧れのサンタ・マリア・デレ・グラツェ教会に 到着。早くも行列ができている。これは長く掛かりそうだと思ったので近くのBARで朝飯でも 食べるかと教会を後にした。ところが日曜日でBARも休みがちでやっと見付けた店は教会からかなり 離れてしまっていた。混雑する店内は地元の人達で賑やかだった。カウンターのバーテンダーは 忙しそうにスプーンやコップを投げんばかりに、カフェやカプチーノを手際良く捌いていた。僕が カプチーノを連発しても相手にされず、これはどうしたものかと考えていると、後から入ってきた客が うまそうにカフェやらを飲んでいるではないか。順番を無視されて少し怒りが顔に出てきたが、ここは 新参者につき堪えて様子を窺うことにした。良く見ると人々はレシートをカウンターに置いていた。 後ろを振り返るとレジの前に列ができており、どうやら先にお金を払ってレシートで注文を取る形の ようだった。ようやくシステムが分かった僕もその列の終りに並んだ。

 2000リラのカプチーノを 注文してカウンターに戻るとすでに僕の分が用意されていた。なんだ聞こえていたんじゃないか。 それならそうと言ってくれればいいのに。これが本場のカプチーノかと感動しながら啜ると、その 感動はさらに深まった。クリーミーな泡立ちと珈琲とミルクのバランスの良さは、文章では表現し 切れない。この味は実際に飲んだものにしか分からないだろう。この味は写真には残せないぞ。日本で 飲むそれとは全く別の飲み物のように感じられた。クロワッサンも食べたかったが、甘そうなので 止めにした。イタリアのBARは立ち飲みがほとんどで、人々はやおら一杯ぐいっとひっかけて 何やら会話をしてすぐに出ていってしまう。僕は会話をする相手もいなかったので、飲み干して しまったカプチーノの泡をしばらく見ていたが間が持たないのでそのまま店を出ることにした。教会に 戻ると行列はさらに伸びていた。

 ここでまたもや不純なことが頭をよぎった。どうせしばらく並ぶのだから可愛い女の子の後ろが いいぞと。並んでいる間に会話の一つも弾んでちょうど昼時なので一緒に食事でもすれば、素敵な ミラノの休日になるではないか。しまったペンショーネの部屋ドッピアのままで良かったんだ。いや ベッドは一つの方がいいのかな。一人ほくそ笑みながら順番待ちの列から少し離れたところで、待つ ことにした。

 ところがなかなか現れない。誰も現れないのだ。女性どころか観光客の誰もが列には、つこうと しない。僕はこの不埒な計画を捨てざるを得なくなった。仕方なく正規の列の最後尾につくと、 前は中年から熟年の日本人4人組だった。おばさん達の会話を聞いていても仕方がないし、僕の後ろに 並んだ外国人も中年だったので、僕はバッグから本を取り出してしばしの行列の暇を潰すことにした。

 川端康成の雪国。ミラノでノーベル賞作品を読むのも粋だ。この小説、改めて読み出すと官能的で、 浅田二郎がかなり影響を受けていることが想像できた。浅田二郎の「鉄道員」も感動したが、この 雪国も文章の一つ一つに風景が重なって、駅の寒さと列車の温もりが伝わってくる。名作と言われ 今なお読み続けられる作品の素晴らしさを思い知らされていた。何分かおきに少し前に進む行列の 隣では自分たちが作ったのだろう少年少女達がパンケーキを売っていたが、どうやら誰も買って くれなさそうだ。あれくらいのパンケーキなら大阪の 「リクローおじさん」 のほうが安くて美味しそう だ。

 30分以上並んだだろうか。ようやくチケット売り場に到達した。チケットをイタリア語で 購入して少し得意顔の僕はついに教会に入場した。最後の晩餐は、一度に大量の人が入って混乱しない ように入場制限されていた。自動ドアで幾つかの部屋に仕切られて、つまりは自動ドアが開いて前に 進むと、後ろのドアもしまってしまうのだ。ある決まった人数を自動的に誘導しているようだ。

 何枚目かの自動ドアが開くとそこは食堂だった。照明が落とされて薄暗い部屋の側面の壁に目当ての 絵があった。あっけないくらいそこにある。この最後の晩餐の薀蓄については拙著「アスペッタの 夜」に譲るとして、僕には夢にまで見た絵がいとも簡単にそこにあるわけで、感動というよりも 拍子抜けしたくらいだった。25メータープールくらいの大きさの食堂。絵の前には修理用のゴン ドラ。絵の対面にはもう一枚のマイナーな絵。絵の感想を述べると全く途方もなく長くなりそうだが、 写真で見る絵と実物はこうも違うのかと思い知らされたことは事実だった。絵の大きさを体で感じて いる。そしてこの絵を見る位置によって絵が変わるのだ。これが500年前のバーチャルリアリティ (仮想現実)なのだ。右端と左端からでは絵の中の壁が違って見える。右から左、左から右とカニ 歩きをしながら絵に集中してしまう。自分の焦点をどこに置くかによっても風景が変わってくる。 この線的遠近法を駆使した作品は、どうしようもなく僕を引き付けるのだ。特に天井に集中して 前方から歩き出すと天井の壁が驚くほど動く。只の平らな壁なのにどうしてもそこには別の部屋が あるように思えてならなかった。

 旅先のボルドーで出会った女性もこの絵に詳しく彼女はこんなことを 言っていた。
「ダ・ヴィンチが最後の晩餐の登場人物のモデルを探していた頃、どうしてもこの絵のキーパーソンの 裏切り者ユダに相応しい人が見付からなかったんだって。すでにこの絵を描き始めて2年以上も経つ のにどうしてもユダのイメージに合う人がいなかった。それでもようやくユダのモデルを見付けて、 ダ・ヴィンチは嬉しさの余りこんな感想を漏らしたそうなの。僕はあなたに会うために2年以上の 歳月を費やしましたが、今会えて大変光栄ですと。そうしたらそのユダのモデルの人がこう返した そうよ。そうですか、それは僕も光栄です。でも僕はあなたには以前会っていますよ。2年前、 キリストのモデルをやっていたのを覚えていませんか」

 この逸話が事実かどうかは知る由もないが、この話を聞いて僕の肌はチキンになっていた。実際の ユダは相当痛んでいて、顔の表情までは分からなかったが、ともかく憧れの絵を目の当たりにして、 僕は時の経つのも忘れてそこに立ち続けたのだった。

 ところでこの絵の前の観光客について。観光客の半分は日本人だったが、彼等に共通していたのは、 この食堂の滞在時間の短さだった。団体客はガイドの周りに集まり通り一遍の説明を聞いた後で、 「地球の歩き方」や「るるぶイタリア」などの情報誌のページを捲りながらこの絵の解説を探し ている。ふむふむと納得するとガイドの案内に連れられてあっというまに退場してしまう。時間にして 5分から10分くらいか。友達同士で来ている旅行者もガイドこそないが大抵は同じような時間で出て いってしまう。但しこれは日本人に限ったことではなく洋の東西を問わず大抵の観光客はあっという まに出て行ってしまうのだ。僕にはそれが信じられなかった。なぜこの絵の確認だけで終わらせてし まうのか。この世界遺産にも指定されている歴史的絵画はあらゆる角度から見てこそ、その素晴ら しさが分かろうというものなのに。これは僕の偏見を承知でいうが、正しい絵画の鑑賞方法はなく、 人それぞれが各々の楽しみ方で鑑賞すればいいことも分かっている積もりだが、敢えて言おう。 もったいない、と。絵が発するメッセージは5分くらいでは到底心の芯に届かないぞ、と。最後の 晩餐から発せられる音は聴こえたか。

 これは後日の話だが、ポルトガルで会った姉妹にこの絵のガイドをかってでて、一時間以上も付き合 わせ、余りの空気の重さに具合が悪くなったという。これは3週間以上も後の話なのでここでは時の 流れにしたがって話を進めよう。

 で、2時間近く絵を堪能した僕は、サッカーの時間も気になり出したので、ようやく退場することに した。教会近くの売店で最後の晩餐の絵葉書を5枚買うと、おまけにもう一枚余り欲しくない絵葉書 をくれた。せっかくなのでありがたく貰って、一路サンシロ・サッカー場を目指した。

 地下鉄に乗った方が良さそうだったが、途中で昼食も取りたかった。歩いていけない距離でもなさそう なので、とぼとぼと絵の興奮を噛み締めながら歩いていった。

 大きめの交差点にはサッカー場への案内板があって道順が正しいことを僕に教えてくれた。サッカー場 は貰った市内の地図の外れにあって、とぼとぼ歩くにつれて段々と田舎の風景になってきた。店も 閉店しており、昼食はスタジアムの売店で済ますことにして先を急いだ。サッカー場へ向かっている と思われる車が何台も僕を追い抜いていく。駐車中の車の中に日産マーチを見つけ記念撮影。こちら ではマイクラの名で売られていた。自分と同じ車を異国で見るのも悪くないが、同じオーナーとして もう少し洗車させたくなるほど汚れている車ばかりだった。

 一時間以上歩いただろうか、街も外れ、遠くにスタジアムがようやく見えて来た。意外に距離が あった。腹も減って足に疲れが溜まっていた。

 スタジアムまで辿り着くとその大きさに圧倒された。福岡ドームの比ではなかった。高さが全く 違っている。でかい。僕は言葉を失いかけた。

 ところがだ。スタジアムの周辺の様子が変だ。だだっ広い駐車場に車がないのだ。しかも入場ゲート も閉まっている。時間がまだ少し早いとはいえ、この時間に誰も居ないのでは、話にならないでは ないか。この状況下において、僕の発想は貧弱だった。サッカーに暴動は付き物で、混乱を避ける ためにこちら側のゲートは締めて反対側からしか入場できないようにしてあるのだと。僕は巨大な スタジアムの反対側に回り込むべく再び歩き出したが、僕の発想が間違っていることを証明するのに そんなに時間は掛からなかった。当然反対側のゲートも閉まっており、駐車場にも車はなかった。

 車はなかったが、ウマはいた。このスタジアムの向こう側には道を挟んで競馬場があり、競馬学校も あった。トラックの荷台にはウマがいて、ジョッキーの格好をしたイタリア系美人がその準備に追わ れていたのだ。彼女らの格好のよさにしばらくは見とれていたものの、サッカーはやっていなく、その 準備の慌ただしさに小心者の僕は話し掛けて理由を聞くことができなかった。サッカーをやっていない 事実は動かし難く、僕は写真の何枚かを撮って街に戻ろうとした。しかしである。観光案内所で貰った スケジュール表には確かに今日開催と書いてあるのだ。中止の理由を追及するまではここを離れる べきでないと考えた僕は、競馬関係者に聞くことにした。

 ところが悲しい事に先ほどの美女たちは 学校にいってしまった後で、親父さん達しかそこにはいなかった。ウマに近づく振りをして、写真 など撮ってもらいながらジョッキーに片言のイタリア語と英語で聞いてみた。試合は確かにあった が、それは昨日の出来事だという。何とこのスケジュール表がミスプリだったのだ。僕は込み上げる 怒りを抑えつつ、ウマの首をなでさせてもらった。ウマは温かく湿っていて、あまり好きな感触では なかった。ジョッキーには礼を言い、別れた。とりあえずはサッカーの事情が判明したので、僕は 納得して町に戻ったのだった。

 中心街に戻る途中で昼食を取りたくて、帰りも歩くことにした。もちろん行きとは違う道を通って。 しかし、流れが悪いときはトコトン悪いもので、やはりピッツェリアなり、食堂なりが一つもなか った。背負ったリュックから取り出した水を飲むのが精一杯だった。途中博覧会をやっていたが、 体力的にそんなもの見ている余裕はなく、一刻も早く何かで胃袋を満たしたい思いが優先して、先を 急いだが、どうしても店を捜し出せなかった。結局なんやかやでサンタ・マリア・デレ・グラツェ 教会に戻ってしまった。この教会周辺には店屋がないことは先刻承知していた。仕方なくドーモ 周辺まで戻れば何かあるだろうと考え、重たい足を引きずりながらもう少し歩かなければならないこと を確認した。もうかれこれ4時間近くも歩き通しだった。その間、水しか飲んでいない。

 ふらふらになりながら、ドーモに戻ってみると、いるわいるわ人間だらけだった。食べ物屋も空いて いたが大混雑で、暇そうな店はまずそうだった。スカラ座周辺も似たり寄ったりで、僕の空腹は 店があるにも拘らず満たされなかった。ドーモの裏手側はショッピング街になっていたが、どこも シャッターを下ろしたままだった。ベネトン前の噴水まで歩いてようやく一軒の店屋に入った。

 BARというよりアメリカンショップのようなその店は繁盛していた。しかし日本人は誰もいな かった。各ブースは飲み物、ピザ、タバコ、パン、菓子などに分かれていて、僕はその中からピザを 選んだ。ようやくありつけたピザは 厚手の生地だった。イタリアンピザといえば薄生地を予想していた僕としては、ふがいなかったが、 この手のお気軽な店ならば厚手の生地の方が食べやすいのだろうと、独り言をいいながら頬ばった。 ピザにはビールが合いそうだったが、そのピザコーナーにはコーラ類しかなく、生ビールのブース は大変な混雑だったのでピザを持って並ぶには抵抗があった。立ち食いとはいえテーブルも確保して いたのでここを離れるのも勇気がいったし、第一注文の仕方も不明だった。出入口の隣にレジがある のだが、そこは誰もいなかったからだ。結局飲み物なしでピザを食べる羽目になり、喉の通りも悪 かった。そんなに旨くもないピザを食べ終え、ビールコーナーに行ってみた。午前中のBARと 同じようにみんなはレシートを出してビールやらカフェやらを飲んでいた。レジには誰もいないのに、 これはどうしたことかと店内を見回すと、タバココーナーが大繁盛していた。そして良く見るとそこ でタバコを買っている人はごく僅かで、大半はレシートのみを受けとっていた。

 ここか。僕は小躍りして順番を待った。ようやくゲットした生ビールの中ジョッキを飲みながら、僕は ビールとピザを両方同時に食べることを新たな目標に加えたのだった。

 ドーモ周辺には日本人がかなりいたのだが、ここら辺まで外れると誰もいなくなるから不思議だ。 おそらくこの店はガイドブックに載っていないのだろう。来る客は誰もが地元の人ばかりだ。どうやら 僕は、他の日本人とは違う旅をしているのだった。

 胃袋はどうにか満たされたが、立ち食いだったので足の疲れは癒されていなかった。そこでしばらく 噴水横のベンチで休憩をとることにした。ベンチは多少汚れていた。目は別のベンチを探していた が、僕の足はすでにそこを確保して離れようとはしなかった。石造りのベンチに腰掛け、大きく 深呼吸して休憩モードに入った。まだ5時前だったが、だいぶ日も暮れてきた。ベンチではほとんどの 人が煙草を吸っていたが、その火が目立つほどの暗さだった。風もあり、11月下旬のミラノも徐々に 薄寒くなってきた。寒さはしばらくはビールのほてりでカバーされていたが、ベンチが石造りのため、 お尻から確実に僕の体温を奪っていった。

 休息をとるか、寒さをとるかで僕は寒さを選んだ。ベンチから立上がり繁華街の方へ暖を求めて 歩き出した。しかし足が嫌がっている。30分かそこらの休憩で足の筋肉が急速に冷やされたのだ ろう。足を前へ送り出す度にふくらはぎに痛みを感じた。倦怠感もあった。僕は二日目のミラノの 夜も諦めて宿に戻る方向で検討を始めた。ドーモまで戻ってくると、ライトアップされ、昼間とは 趣の違うドーモがでんと立っていた。頂上にいただく像が金色に光輝き、正面の壁は緑や黄色に 美しくライトアップされていた。東京で言えば、東京タワーのライトアップに相当しているのだろう。 この夜景を素通りしてしまうのももったいない。もう少し街を散策しよう。

 そういえば、この辺りは 映画街にもなっている。ちょうどヴェネツィア映画祭で北野武監督作品「HANA−BI」が グランプリを獲得していて、ここイタリアでも話題になっているという。僕はここまでくる途中で 何軒かあった映画館に戻った。ところが残念ながら「HANA−BI」は上映していなかった。 この映画ならヴェネツィアで観ることもできるだろうと素直に諦めて、イタリア映画を素直に楽しむ ことにした。内容よりも上映時間のタイミングで 「FACCIAMO FIESTA」 という映画を 選んだ。館内は満入りの盛況振りで、僕は中ほどの右端の席に陣取る事ができた。なぜこれほどの 盛況でこの席が空いていたのか不思議だった。途中の休憩で横を見ると僕の隣の席は完璧に壊れて いて、背もたれの部分しかなかった。イタリアでも映画はカップルで来るのが普通のようで、一人分 しかないこの席が空いていたというわけだった。

 映画はイタリア版のコメディといったところか。何の因果かしらないがイタリアに戻った青年が 友達とナンパして女の子たちに別荘を買ってあげたまではよかったが、見事に不動産業者にだまされて しまう。怒りが収まらない主人公はやっとの思いで不動産業者を見付け出すが、すでに金はないと いう。そこで闘牛ならぬ闘鶏で一儲けしようと試みるが、闘鶏詐欺師にまんまと引っ掛かり、有り金を もぎ取られてしまう。それでも、闘鶏では負けたが不動産詐欺では、こちらに分があった。その闘鶏 詐欺師に別荘の話を持ち掛け例の物件を吹っ掛けてまんまと損失補填に成功するというストーリー。 いわばイタリア版「ミナミの帝王」という感じだった。全編当然ながらイタリア語で、詳細につい ては全く分からないが、おそらくそういう内容だと思っている。正味1時間30分くらいの作品だ が、オペラよろしく第一幕・第二幕に分かれていた。

 僕は映画そのものよりも、1000円くらいで暖もとれ、ゆっくりと休息できたのが嬉しかった。 他の観客もまあ満足のようで、地元の人々の娯楽に触れられたのも悪くなかった。ここでも日本人は 見掛けなかった。

 映画館を出ると肌寒さが身に応えた。ドーモのライトアップも彩りを変えて、続けられていた。 しかし最初に見たときの感激は薄れ、これ以上の夜の散歩は両足の痛みが拒んでいた。考えてみれば、 日本では近所のコンビニでの買い物にも車を出す生活に慣れてしまっているのだ。疲れるなという ほうが土台無理な話だ。街で一人、酒を飲んでもおもしろくないので、今夜も宿に戻ってワインでも 飲もう。地下鉄に戻ると自動改札の横に切符の自動販売機があった。こちらでは自動 販売機はあまり見掛けないので、興味をそそられた。料金は1500リラとあり、財布の小銭も 丁度同じ額があった。僕は朝買った4500リラの切符よりも安いと思いながら小銭を投函した。 切符がちゃんと出てきた。この機械も使いこなしているぞ。僕は些細な喜びに包まれた。しかし、 ふと思った。朝の切符は一日券ではなかったのかと。やはり朝の券は一日乗り放題のチケットだった。

 2枚の地下鉄の切符を両手に眺めながら、これからは切符の意味を考えながら買おうと誓った。 こういう無駄なお金が長旅の後半に痛手となるのだ。自戒の念を込めて僕は地下鉄に乗ったのだった。

 中央駅で800円のワインと石鹸を仕入れ、ペンションに戻ると玄関が閉まっていた。僕は昨日練習 した通り部屋番号をインターフォンに告げた。カチッという音と共にロックが外され、僕はすんなりと 扉を開けた。普通ならばここで慌てるところだが、スムーズに行動できている。流れが回復してきて いる。

 新しい部屋は昨日の部屋の向かいにあった。今度はちゃんとベッドは一つだった。共同シャワーも 無事使いこなせた。タオルは洗面台にあったのでそれを使うことにして、自分のタオルは温存した。 シャンプーなどという洒落たものは安宿にはなく、石鹸を髪の毛に擦り付けて、一日の汚れを落とした のだった。

 部屋に戻ってパンツと靴下、Tシャツの洗濯。洗面台のお湯を使って水洗い。暖房機の前に椅子を 持っていき、そこで乾かすことにした。新しいパンツにはきかえて、新しいTシャツはもったいない ので、上半身は裸のままでいた。アーミーナイフでワインを開け、ミネラルウォーターの空き プラスチック容器で乾杯した。初の地元ワインだった。ワインに導かれたかのように、僕は真新しい シーツの中に身を沈めたのだった。

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