11月25日(火曜日) ロマネコンティの畑で心震えるの巻

 電車で揺れながら浅い眠りを何度か経験していると、再び室内が明るくなった。国境を越えた のだ。フランスに入ったようだ。ここでパスポートコントロールを受ける。せっかくだからパス ポートに記念スタンプでも押してくれてもよさそうだが、何もなかったかのように返されただけ だった。国際電車ではスタンプは省略しているのだ。

 寝ぼけ眼に室内の明りは事のほか眩しく、また点けっ放しにされたらどうしようかと思ったが、 今度はちゃんと消してくれた。青年と目が合ったが、彼もたいそう眠そうだったので、目で挨拶 だけした。

 この電車は早朝6時前にディジョンに着く。もし起きれなかった場合はパリに8時すぎに到着 する。乗越した場合はそれまでだと腹を括って眠ったが、久しぶりの夜行の緊張感もあり、眠りも かなり浅かったので、当初の計画通りディジョンで降りることができた。

 この町での目的は、唯一つ。世界一のワイン、ロマネ・コンティの畑を見ることだった。

 青年に別れを告げて駅に下り立つと、非常に寒かった。朝の6時では無理もないか。この時間では 銀行も観光案内所もやっていないので、身動きがとれない。明るくなるのを待つしかなさそうだ。 ちょうど駅には待合室があり、暖房も効いていた。椅子は堅かったが、身を小さくして仮眠モードに 入った。そんなに広くない待合室の椅子も半分以上が埋まっており、僕の隣にもフランスの美少女が 座っている。フランスでも犬が市民権を得ていてこの待合室にも犬を連れてきている紳士がいた。 僕は昔、犬に噛まれ追い掛け回された経験が尾を引いていて犬は苦手だった。その犬はおとなしく 懐いているからよかったが、僕は少し緊張気味に犬のそばで小さくなっていた。犬の主人は携帯 電話でさっきから何やら話している。こちらの携帯電話は日本のそれの倍ぐらいの大きさだ。そう いえば、携帯電話の生活から解放されている自分に気が付いた。誰からも連絡がこないというのも悪く なかった。昔はみんなこうだったのだ。待ち合わせをするのにも以前なら何時何分にどこどこ駅の どこで待ち合わせというように、時間と場所を確定させていたものだ。それが携帯電話やPHSの 普及で、夕方渋各か新宿で、というような大雑把な約束に変化してしまった。常に電波に囲まれて 生活しているなと思う。こうして携帯電話から離れると電波の雨からも解放されたような気分 になった。

 ところで携帯電話の普及で、僕は他人の電話番号が暗記できなくなった。短縮ダイヤルの番号を 順送りにすれば、いとも簡単に電話が掛けられる。便利になったが、携帯がないと友達に電話も できなくなっているぞ。以前なら友達の電話番号は100人分ぐらいはいえたが、今は自宅・会社・ 携帯と一人で3種類の番号を持っていることもあるが、全く覚えられなくなってしまった。今でも すらすら言えるのは昔覚えた番号ばかりだ。だから今こうして国際電話でも掛けてみるかと思っても 自宅の番号しか分からなかったりするわけで、これはなんだかとても寂しかったりする。

 狭い待合室で待っているのも飽きてきたので、トイレでもいくかと駅を歩き出した。地下にトイレ を発見したが、清掃中で鎖が掛けられてある。もうしばらく我慢する必要がありそうだ。実は僕が 便意から解放されるのはこのときから2時間以上経過した後だった。

 しばらくして再びこのトイレに戻って見ると鎖は解かれていた。しかし、このトイレ有料だった のだ。男性の小は無料だったが、僕の欲求はそこで満足されるものではなかった。

 トイレ周辺は寒かったので取り敢えず待合室に戻った。僕にはフランスフランの持ち合わせが なかったのだ。トラベラーズチェックはかなり持っていたが、まさかそんな物がトイレで使えるとは 思えない。銀行で紙幣とコインに両替するしかなかったが、駅周辺に銀行は見当たらなかった。 9時を過ぎて駅の案内所が開いたので、ロマネコンティの行き方を聞くと、ここでは分からないので、 街の案内所で聞いてくれとのことだった。駅を背に街の方へ歩いていくと観光案内所があった。 黒人系の女性に聞くと、どうやら彼女はロマネコンティを知らないらしい。地元の人でも世界一の ワインを知らない事実は僕を驚かせた。しかしよく考えると、あの酒を飲む人は、貴族か大統領か アラブの石油王か、大リーガーなど世界の金持ちだけだろう。レストランで飲めば1本30万円 以上もするのだ。一般の庶民には縁もゆかりもない。知らなくて当然かも知れない。ただ、この ワインは知らなくても、ワインの村については知っていた。コートドール。黄金の丘。世界有数の ワインを生産する地域はさすがに知っていた。

 バス停の場所を教えてもらい、バスの時刻表も貰って、僕は再び駅に戻った。駅で警察官に銀行の 場所を聞くと今いた所の先にあると言う。がっかりして引き返すと、案内所の先にクレディリヨネ 銀行があった。駅周辺には何もなかったが、この銀行周辺はかなり栄えていて高級ホテルから商店街 までいろいろあった。しかしこの辺りで便意が本格化してきた。フランのチェックを多めに現金化 して、僕は駅に戻ろうとしたが、便意に集中力をそがれ今のところでコインを混ぜてもらうのを 忘れていた。何か菓子でも買えばいいと思って売店でチョコレートを買う。ようやく小銭ができた ので急いでトイレに行くと、料金は2フランだった。財布を覗くと10フラン5フラン硬貨はあるの だが、2フラン分の硬貨はなかった。トイレのノブをクルクルいじってみたが、やはり硬貨がないと 開かないらしい。いよいよただならぬ事態に突入してきた。お尻に力を込めつつ再び売店に戻り水を 買う。これでようやく2フランを獲得した。トイレに戻り硬貨を入れるとトイレが開いた。喜びと ともに中に入るが、ことのほか狭い。使用開始後間もないことから室内は綺麗だったが、その狭さには 閉口した。バッグをノブに引っ掛けて、ジャンパーをまくり、と、その後の過程については省略する ことにして、とにかく僕の2時間前からの計画はようやく成就されたのでした。ところが、この トイレ水の流し方が分からない。普通はボタンなりぺタルなりあるいは紐なりがあってそこを操作 すればきれいに流されるはずなのだが、どうもそれらしきものは見当たらない。幸いかどうかは 知らないが、かなり下痢気味でトイレットペーパーをかなりふんだんに使っていたので、そのもの ズバリは紙に隠されている。僕はミラノのトイレを思い出した。あのうんこの塊の山よりは、と またまた貧相な発想が僕の脳裏を支配してしまった。

 バッグを背負い、ノブを開けて外を覗くと誰も居ない。誰も居ないということは、走るしかない だろう。僕は手も洗わずに全力でこの場から消えたのだった。僕は罪悪感の塊を体全身に感じながら も、忘れる事に全力を挙げていた。この場を借りて再び謝ればそれで済むことだ。済まないかも しれないが、佐藤前総務庁長官の就任の弁を借りれば、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、という 見当はずれの諺に免じて許して貰いましょう。

 バス停は駅の裏にあった。受付で聞くと、料金はバスに乗るときに払えば良いとのこと。 僕は何番線に乗ればいいのかを再三確認して、バスを待った。11時すぎのバスは、空いていて僕の 他はおばあちゃんが一人いるだけだった。女性運転手に行き先を告げて、僕のバスの旅が始まった。 生憎小雨がぱらつきだしている。30分も乗っただろうか。僕の告げたバス停に着いたようで 運転手がこちらを見ている。礼を言い降りると、そこはコート・ドールだった。クロ・ド・ヴージョの 畑が広がっていた。所々にその畑の所有者の看板が畑の道路側に掲げられている。僕も知っている ドメーヌばかりだ。

 ワイン畑の真ん中を走る国道に沿って、とぼとぼと歩きだした。広大な土地にはブドウの木が 等間隔に植えられている。すでに収穫を終え、畑には枝しかなかったが、それでもここから世界に 向けて一流のワインが送り出されているのだ。ワイン畑を歩いていると遠くに村らしき建物が見えた。 教会とか、民家とかその手の類いだ。あれが、ロマネコンティの村だろうか。はやる気持ちを抑えて、 僕は歩を進めた。近そうでなかなか辿り着かない苛立ちを覚えながら、今日一日たっぷり歩くの だからと、気を静めた。雨もなんとなく上がってきた感じだ。良かった。見渡す限りのブドウ畑を 歩いているだけでどうして、こんなに心が躍るのだろう。別にブドウがあるわけでもなく、ワインが 落ちているわけでもないのに。秋田で田圃の中を車で走っていた頃には感じなかった感覚だ。写真も 撮り捲った。こういう時こそ一眼レフの高級カメラで、畑を嘗めるように撮りたいものだ。建物が だいぶ近付いて来た。

 近付いたのはいいが、ここにもバス停はあった。僕はどうやら一つ手前の村で降りてしまった ようだ。観光案内所の彼女も大体この辺りだろうと教えてくれたのだから、ひとつや二つ村が違った ところで、僕には影響はない。逆に一つ手前からロマネコンティの村を眺められただけで興奮 していた。

 国道から村道に入った。民家の中をしばらく歩くと突き当たりに看板があった。それは畑の案内図 とでもいうのだろうか、畑の名前が書かれていて、自分の目当ての畑のボタンを押すとその畑の 電球がつく仕組みになっていた。ロマネコンティを押すと、ここからすぐであることが分かった。 その建物をそのまま畑に進めば突き当たりがロマネコンティの畑のようだった。僕は走り出した。 そして本当にすぐだった。写真で見覚えのある看板がある。近寄ってその文字を読むと ROMANEE CINTIとある。

 やった。

この畑にやってくると誰もがガッツポーズをとるという。僕もご多分に漏れず思わず拳を握りしめた。 実は僕もまだこの酒は飲んだことがないのだが、とにもかくにも世界一のワインがここから生まれる のだ。畑に触れると粘土質でかなり湿り気があった。ほかの畑同様すでに収穫は終えているから枝しか なかったが、それでもよかった。取り残したブドウの実が小さく萎んでいたので一つ取って嘗めて みた。酸っぱかった。ロマネコンティの畑は本当に小さい。例えて言うなら、バスケットの試合が 2面とれるかどうかだ。小道を挟んであちら側は、リシュブールという銘柄になってしまう。ただこの リシュブールにも思い出があって、この畑と同じ名前のワインバーが秋田にある。僕のワインはその お店から始まったわけで、マスターは地元のFM番組を持っている人で、ワインとジャズに長けた 人だ。その人の案内でいろいろなワインを飲み始め、今こうしてこの畑に立ってしまっているのだ。

 ロマネコンティとリシュブールを分ける小道は本当に狭い。この道一本で左側が10万円以上 右側が3万円になってしまうのだ。その違いは僕の目からは分からなかった。

 砂利道に沿って丘の方へ向かってみた。ここら辺はコートドール黄金の丘といわれるだけあって ちょっとした丘になっている。ここまできた以上、その頂上も征服してみたくなるのは自然の原理だ。 歩いているうちに汗ばんできた。スタジアムジャンパーを右手に持ち山を登る。特に何もないが 興奮を抑え切れない。こんなに興奮しているのは、最後の晩餐を観た時以来だからそんなに日は経って いないが。とにかく興奮覚めやらぬといった状態だった。

 ある程度頂上までいったが、雑木林が広がるだけでとくに記念碑とかはなさそうだ。僕は引き 返してもう一度あの畑に戻ろうと思った。僕の夢はあの畑でガッツポーズの写真を撮って、額に 飾って部屋でニヤニヤすることだったからだ。畑に戻ると外国人のカップルが車でやってきていろ いろと写真を撮っていた。僕は彼らの仕事が一段落するのを待って声を掛けた。彼等は喜んで僕の 写真を撮ってくれた。最高に嬉しい瞬間だった。彼等は車で次の畑へ向かい、僕は周辺を散策した。 フィルムが残り少なかったのでここで撮り切ってしまおうと思った。ロマネサンヴィバンの畑を撮って 無事カメラは巻き戻り始めている。新しいフィルムをセットしたら、この村でも散策しようかと考えて いると、僕の後ろで車が2台止まった。今回の旅でも最も印象に残るシーンがこの後展開されよう とは、このときの僕はこれっぽっちも思っていなかった。

フランス製の乗用車から降りてきたのは、田崎真也氏だった。

 あのソムリエ世界一の 田崎真也 氏だった。僕の驚きようは凄まじかった。世界一のロマネコンティ の畑で世界一のソムリエと会ってしまったのだ。僕はこのヨーロッパにくる直前、池袋のワイン フェスティバルで田崎氏に会っている。田崎氏の講演会を聞きにいっていたのだった。本も何冊か 買い揃え、今、僕の最も関心のある人だった。田崎氏の苦労話、特にワイン畑を一日中歩いていた頃の 話に感銘を受け、実際僕も今日歩いてしまっているわけだが、よりによってこんな素晴らしいステージ でお会いできるとは。僕の感動は最高潮に達していた。

 田崎氏が僕に気遣いながらも後ろの車に寄って行く。雑誌の取材か何かだろうと、一歩下がって 待っていると中からは、見覚えのある人が出てきた。田崎氏と記念撮影しているその人は、女優の 古手川祐子氏だった。モト冬樹氏もいる。他にマネージャーらしき男女と外人さんが田崎氏から ロマネコンティについて説明を受けていた。

僕は記念撮影の仲間に入れてもらいガッツポーズを決めた。只そのとき非常に腹立たしかったのは、 古手川祐子氏のマネージャーと思われる女性の態度だった。一緒に写真を撮ってもらうときに、本当 なら写真は断っているのだけれどまあ特別に撮ってあげようかしらという態度。僕の興奮に怒りが 入ってきた。僕は田崎氏との写真か欲しいだけで、あなたの女優さんとは行き掛かり上一緒に入って もらっているだけだ。芸能関係はこれだから好かん。ワインは人を選ぶかもしれないが、畑の前では 平等だろと言いたかったが、せっかくのステージで、ブドウならぬお茶を濁すのも何だと思ったので、 素直に撮ってくれたお礼を述べて一歩下がった。世界一の畑の前で小競り合いをするほど僕の了見は 狭くないのだ。

 古手川祐子氏はロマネコンティの畑を歩き出した。粘土質の畑は非常に歩き難そうで目があった ときも苦笑いをしていた。ところでこの畑に許可なく入っていいのだろうか。田崎氏も何も言わない ところをみるといいのだろう。

 田崎氏らがこの畑にいたのはものの5分か10分くらい、ちょうどミラノの最後の晩餐を見学する 人々と同じ位の時間だった。別れ際、田崎氏に写真のお礼をすると、にっこり微笑んで気をつけてと 言ってくれた。去って行く車を見送りながら、僕はこの奇跡を噛み締めた。田崎氏がこの畑を訪れる 回数は多いかもしれないが、僕が来ることはもうないかもしれない。しかも10分間という短い瞬間の 出来事に、僕は運のよさというか、流れのよさを感じ、狂喜乱舞する思いだった。

 それにしても次に古手川祐子氏と写真を撮る機会があったら、今度は向こうからお願いされる ような人物になってやるぞと、ロマネコンティの畑の前で誓ったりしたのだった。

 田崎氏が去って、少し寂しくなった畑を僕も後にした。畑の後はドメーヌを見学したいと思って いた。ドメーヌというのは、ボルドーでいうシャトーの事でいわゆる醸造所のこと。日本でいえば なんとか酒造に当たる。ボーヌ・ロマネという村の中にこのロマネコンティもある。世界一の ワインをつくっている村だから、その設備や敷地はたいそう立派なものかと思っていたが、実際この 村に来ると、本当になんてことない村だった。ロマネコンティのドメーヌも普通の民家と変わりなく、 その余りの小ささに拍子抜けしたくらいだ。

 普通の農家の親父さん達が、ブドウを収穫し、ワインを作っている。まさに農業だった。因みに シャンパーニュ地方のモエ・エ・シャンドン社、ボルドーのシャトー マルゴーにも行ったが、 フランスを代表する3つのワインの産地は、それぞれ個性があって大変興味深かった。詳細に ついては、コラムを参照してください。

 ロマネコンティを作っているドメーヌを探すと、その余りの小ささに驚かされた。本当にたんなる 民家で、門の表札がなければ、素通りしてしまうくらいだ。ちょうど門が開いていたので、従業員に 英語で話し掛けてみた。是非中を見学させてくださいと申し込んだが、丁重に断られた。僕がもう 少しというか大幅にフランス語が喋れれば、もっと交渉できたと思うが、なにぶんボンジュールと メルシーボクーとシルブプレの3つしか喋れないので簡単に引き下がってしまった。一度断られた だけで帰ってくるとは餓鬼の使いじゃあるまいし。入社以来営業に携わってきたものとして非常に 恥ずかしい限りだが、言葉の壁を言い訳にして、僕はその場を離れてしまった。

 ボーヌ・ロマネ村はそんなに広くなく、大体ぐるりと回ってしまった。2時になれば、 カーブと 呼ばれる酒屋さんでこの土地のワインを買うことができる。僕は村の案内図のところでしばらく時間を 潰した。2時になるのを待って僕は酒屋に入った。店の前には樽が置かれており、ワインの瓶が数本 飾られている。店内は薄暗く、かなり狭かった。店員は女性が一人。僕はワインの棚を拝見した。 この村で作られているワインが10数種類あった。その中に僕が先日飲んだワインもあった。価格を 見ると49フランだった。大体1000円ちょっとか。日本で買ったものの約六分の一だ。これは 安い。実をいうと、僕はここのブルゴーニュのワインも好きだが、ボルドーワインはもっと好き だったので、同じ買うならボルドーでと思っていた。確かに安い。この調子ならボルドーの格付 ワインは期待できるぞと胸を膨らませた。

 棚を良く見ると、鍵が掛けられた棚にあのロマネコンティもあった。950フランだった。 日本円で2万円ちょっと。これは安い。是非買おうと思って、店員に交渉した。ところが世の中 そんなに甘くなく、店員が言うには、この酒は1本では取り扱ってなく、もれなくロマネ サンビヴァンという銘柄を11本もつけないといけないという。これに箱台と日本までの郵送料、 関税を含めると、大体8万円以上になるという。しかも、今はロマネコンティは在庫がなく、 ラターシュという銘柄ならわけてもいいという。僕の英語力が正しければ彼女は丁寧な英語でそう 説明した。

 ロマネコンティの抱き合わせのセット販売は僕も知っていたが、観光客にまで適用しているとは 思わなかった。可愛いが、きつい目をした店員には逆らえず、僕は店を出ることにした。幾ら なんでもそんなに出せないぞ。

 僕は本当は別にロマネコンティがどうしても欲しかったわけではなく、何か一本この村のワインが 欲しかっただけなのだが、その酒が駄目なら他のにしますとはなかなか言い辛く、話の流れに 沿ったら店を出てしまったのだった。ここでも小心者の僕が垣間見られたりする。しかたなく村の 外れにもうひとつ酒屋があったので、そちらで交渉しようと考えた。しかしようやく辿り着いたその お店は、開店休業中で入りロはロックされていた。ロマネコンティのちかくにもお店はあったが、 別に対した建物ではなかったが、なんとなく敷居が高く、結局入れずにいた。僕は体裁は悪かったが、 再び先程の店に入ることにした。やはりこの村にまできてワインを買わない手はない。たとえ ロマネコンティは買えなくとも、世界に名だたる銘醸ワインの数々を飲まないなんて事は、僕の 生き方に関わる問題に思えたからだ。

 先程の店のドアを開けると彼女は何やら他の村人と談笑している。僕は軽く挨拶して、並べられた ワインを拝見した。ワインにはいろいろランクがあるが、それは主にそのラベルに表示されている。 平たく言えば、ワインは産出する地名が限定されて行くに連れて上質となる。ブルゴーニュという 地方名よりもボーヌ・ロマネという村名ワインが、村名ワインよりも、ロマネコンティという 畑のワインがよくなるという感しだ。そして、当然ながら秋田の酒屋に山形県天童市の出羽桜が ないように、ボーヌ・ロマネ村には隣のニュイ・サン・ジョルジュ村のワインはない。クロ・ド・ ヴージョのワインもない。

 僕は棚のワインの中から村名ワインを選んだ。ポーヌ・ロマネ。京都のデパートで7000円で 売っているこのワインは、129フランだった。別に金額の問題ではなく、この村で買う喜びに 浸りながら、僕は会計を済ませた。ワインを買うと腹も減ってきた。そう言えば、今日もろくな物を 食べていない。時間も3時近くになっていた。僕はレストランを紹介してもらうことにした。彼女の 説明によると国道沿いに安くて美味しいレストランがあると言う。親切に地図まで書いてくれた 彼女に礼を言い、僕は名残惜しいこの村を後にした。ありがとうロマネコンティ。

 レストランは赤い屋根だからすぐに分かると言われたが、たしかにすぐ分かったが、村外れにあり、 かなり歩かされた。見渡す限りのワイン畑の中で、木の影に隠れてその店はあった。店の隣では大工 さんが何やら工事をしている。僕は嫌な予感がした。レストランの隣ででかい音を出して工事をして いる。時間も食事時を大きく外している。

 そして、僕の予感は的中した。扉は固く閉じられていて、中に人の気配は全くなかった。僕は 酒屋の彼女に当たりたくなった。人に食堂を紹介する時は安くて美味しい店も有り難いが、開店 しているかどうかも大事な要素じゃないか。しかし、僕のそんな思いも大工の説明で杞憂である事が 判明した。何とこの村には、レストランはここしかなかったのだ。

 僕は彼女を疑った不明を恥じ、隣村まで歩く決心をした。大工もここは美味しいと自慢してくれ たが、そんな自慢は僕には何の得にもならなかった。

 空腹もピークを過ぎればなんとやらで、僕はひたすら歩き続けた。どうやら次の村迄は かなり ありそうだ。畑では所々で農夫たちが畑の手入れをしている。恐らくこの時期の手入れ次第で来年の 作柄にも影響があるのだろう。僕は国道を南に進んでいた。国道には歩道という洒落たものはなく、 アスファルトと砂利の繋ぎ目に沿うように僕は歩き続けた。本当なら畑の砂利道を歩きたかったが、 レストランというものは畑の真ん中には当然あるはずもなく、ピークは過ぎたとはいえ、空腹には 変わりなく、僕はこれからの長旅を考えるとやはり食事は取るべきだろうと考えていた。国道ならば ファミリーレストランかコンビニエンスストアの類いもあろうかと、あらぬ期待をしながら一歩一歩 進んでいった。

 国道では僕を車が何台も追い抜いていった。ガードレールもないので、車の気配を背中で感じると 轢き殺されませんようにと祈りながら、僕はその車に命を託していた。

 ヒッチハイクで簡単に隣村に行くことはできたが、僕は猿岩石ではないし、ドロンズでもない。 猿岩石のヒッチハイク ユーラシア大陸横断もテレビの企画としては娯楽性もあるが、僕の旅には 関係がない。彼らの旅はヒッチハイクという限定された手段での旅で、しかもバックに日本テレビ 放送網という組織の保護のもとにあるのだ。万が一の事態になれば、企業が責任を負うことになって いる。しかし、僕の場合は海外旅行傷害保険があるだけで一個人としての旅だ。と、そういう 堅苦しい話は置いといても、車で移動したのでは、ワイン畑の音が聞こえてこない。今日本は空前の ワインブームという。当然このコートドールの映像もお茶の間でたやすく、何の投資もなく見ることが できる。しかし、それではこの土の音が聞こえてこない。砂利を踏む音、技に触る音、ダンプカーが 背後から追ってくる音、風の音、それらの音が車に乗ってしまうと聞こえてこない。現にディジョン の駅からクロドヴージョ村までのバスの中では、幾つもの畑を通り過ぎて来たにも拘らず、それらの 音は聞こえなかった。畑を通り過ぎる速度も違う。車でなら5分でも、徒歩となると1時間もかかる。 しかしこの1時間が僕には大切なのだ。55分の無駄が僕には最高に心地好いのだ。ちょっと力が 入ってしまった。視線を畑に戻そう。

 畑では農夫が作業している。農夫と目が合うとお互い挨拶をする。ごく自然にボンジュ ールが出て くる。僕の疲れも、彼らの挨拶によって和らげられていく。こんな国道を歩くのはよほどの物好きと 思われているのだろうと思いながらも。

 まだ時刻は早いが、太陽は西日へと変っていた。西日はコートドールの斜面を照らし、それは まさに黄金の丘だった。ちょっとした雲の隙間からの陽射しを斜面全体で受け止めている。この畑が 南西を向いてどうのこうのというガイドブックの説明が思い出され、納得するのに十分な風景だった。

 心の高ぶりを押さえながら、別に抑える必要もないことに気が付いて、僕の興奮は最高潮に達して いた。ただ畑を歩いていただけのことで、こんなにも感動している自分を思うとき、自分も捨てた 物じゃないなと勇気が湧いてくるから不思議だ。

 何度も歓喜の声を上げながら僕は歩き続けた。日は確実に沈みつつあり、冷たい風が頬を伝うが、 その冷たい風が高ぶった僕にはとても気持ちよかった。

 ようやく隣町の看板が見えてきた。ガソリンスタンドやらも現れ出した。ニュイ・サン・ ジョルジュの町だ。そうここは村というより町だった。ブドウ畑も国道から無くなり、代わりに 民家が増えてきた。カーブと呼ばれる酒屋に入ると、今度はニュイ・サン・ジョルジュ村産のワイン だけが売られていた。ワインのラベルから自分の所在地を伺い知れた。すでにワインは買っていたし、 僕のこぶりのバッグにはこれ以上ワインは入らないので、(ボーヌ・ロマネとイタリアワイン)、 店員のご婦人に目を合わさないように店を出た。そこからさらに中心に向かって歩くと商店街があり、 教会もあった。僕はバス停の場所を確認して、商店街に歩を進めた。僕は適当なレストランを 探したが、余りお洒落なお店は、この汚い格好に不釣合だし、どうも一人の食事は苦手なこともあり、 ピザ屋に入った。ピザならイタリアで死ぬほど食べられるかとも思ったが、吉野家風でもあり、 ピンボールでも置いてそうなカジュアルな感じもしたので、そこのカウンターに腰を据えた。ビールと ピザを頼み、後でワインにすればよかったかと思ったが、他の客がヒールを飲んでいたのでつられて しまったようだ。

 店内にはちゃんとピンボールがあり、卓上テレビゲームもあった。町の若者がテレビゲ ームに 興じている。どうやら三択のクイズらしい。店の主人はテーブル席で何やら仕事の話をしている。 店の拡張計画か融資についてだろうか。2杯目のビ−ルを頼んだところでピザがきた。厚手のピザは それほど美味しくなかったが、僕の胃袋にはちょうどの大きさだった。店を出ると辺りはかなり 暗くなっていた。この町の畑にも興味があったが、この暗さに寂しさを覚え、ひとまずディジョンに 帰ることにした。屋根付きのバス停まで戻ると次のバスまでは1時間近くある。この時間帯は スペインでいうシエスタでバスは通勤時間帯まで待たなくてはならないのだった。

 辺りは暗く、さすがに11月下旬ということもあって寒くなってさた。一日中歩いて、その疲れも あり、食事をして足を休ませたために、ふくらはぎが張っていて痛みもあった。これ以上の歩行は 無理だったので、僕はバス停でイタリアワインを飲んでバスを待つことにした。アーミーナイフで コルクを引き出し、ミネラルウォーターの空きプラスチックに移して飲んだ。寒さの余りかなりの 勢いで飲んでしまった。バス停から少し顔を出すと、信号待ちのトラックの運転手と目が合い、 向こうが右手の拳から親指を立てて挨拶してきたので、僕もワインを少し上げて乾杯した。こういう 何気ないやり取りが、ほっとさせてくれるものだ。寒さはワインの力でなくなったが、足の痛みは 増すばかりだった。ワインが1本空になり、つまみのチョコレートもなくなったころバスが来た。 帰りのバスは地元の高校生で混雑しており、行きとは打って変わって賑やかな車内だった。運賃は 行きよりも少し高い程度で、僕が今日歩いた距離は本当に少しだったのだと実感した。

 バスが駅に戻ってから僕はもうひとつしなけれはならなかった。ホテル探しである。シーズン オフという事でホテルも空いているとタカを括っていたために、午前中にホテルは探さなかったのだ。 ところがエッフェル塔の看板が掛けられたホテルに行くと今日は満室だという。えっ。僕の思惑は 外れてしまった。次の店も断られ、駅周辺で安そうなホテルはあと一つしかなかった。そこが駄目なら ば、面倒臭いことになりそうだと僕は大いに心配した。3件目に恐る恐る行くとOKとのこと。 僕は安心を取り戻した。黒人の兄さんに部屋代200フランを払い、キーを渡された。突き当たりの 部屋が僕の部屋で、そこでキーを差し込むがなかなか扉が開かなかった。これはヨーロッパのホテル 全体に言えた事だが、キーには何かコツがいるようで結局そのコツが掴めず苦労したままで帰国する ことになるわけだった。

 1分近くごそごそやって何かの拍子で扉が開いた。僕はようやく眠る場所を確保できた。取り敢えず シャワーだ。ヨーロッパのシャワーはトイレと併設されていて、しかもカーテンを内側に引き込まない とそこが水浸しになってしまう。僕は水が外にでないように気をつけながらシャワーを浴びた。にも 拘らず水浸しになった。情けない事に、シャワーのあと最初にやらなければならないことは、その水を タオルで拭き取ることだった。裸のままで拭き取る姿は、それはもう情けなく、惨めだった。拭き 取りのあとは洗濯が待っていた。一日中歩いて僕の衣類は汚れていた。靴下とパンツを洗い、少し 悩んだが、Tシャツも洗うことにした。コートドールでかなりの汗を掻いていたからだ。洗剤という ものは僕の旅には存在せず、石鹸をつけてお湯洗いをした。Tシャツは紺色だったので汚れているか どうか一見したところでは分からない。匂いを嗅いでまだ臭くはなかったが、洗えるときに洗って しまおうと考え、暖房器具も完備していたので乾燥も大丈夫かと思い、洗濯を決意した。大学時代の 旅のときはTシャツは白だったので、汚れがすぐに分かった。特に首回りの汚れは目立ち、洗濯は 毎日していた。おかげで帰国後そのTシャツは黄ばんで、新品と比べると大層しわしわだった。 そこで今回の旅では汚れが目立たない色つきTシャツを2枚買って、汚れの解決を試みたのだった。 汚れが目立たないということは、洗濯の必要性も薄くなり、それはかえって汚らしくなったりした。

 シャワーも洗濯も終え、裸になった僕は、新しいパンツとTシャツに着替え食事に出ようかと 考えた。しかし、ここで悲しい発想が僕を襲った。今の自分は一日中歩いたせいでかなり疲れている。 時間はまだ7時前だ。少し休んでから食事をしても遅くはなかろう。第一ピザを食べてからまだ少し しか経っていない。新しいパンツはそのパンツを誰かに見せる時にこそ履いているべきではないか。 Tシャツも然り。ただTシャツの場合は人に見せても特に何があるわけではないので、オペラ鑑賞の 時にシャキッとしたほうがよさそうだ。そういう発想の下、僕は洗い物を暖房機の前に干して、 それを着て外に出ることにしてしまった。着替えの温存だ。僕は裸のままベッドに横たわり、洗濯物 が乾くまでテレビでサッカーなど見て過ごした。こちらのサッカーは日本と比べて親子ほどの実力差が ある。ちょうどシュート特集をやっていて、弾丸シュートの数々をテレビながら目の当たりにした。 サッカーが終わるとニュースになった。山一証券の自主廃業のニュースも大きく取り上げられ、大阪の 支店で興奮したお客をガードマンが押さえこんでいる姿が何度も放送されていた。

 暖房が効き過ぎた部屋は蒸し暑く、窓を開けると冷たい風が入り込んで裸の僕には堪えた。 ホテルは映画館の前にあって街道に面していた。カーテンを体に巻き付け、外の様子を眺める。 静かなフランスの夜だった。

 洗濯から2時間も経っただろうか。喉が乾いてきた。液体は水が少し残っているだけで、買った ばかりのワインが1本あるだけだった。乾いた唇が何か飲みものを探していた。パンツを触ると ほとんど乾いている。靴下は少し湿り気があるが、これも何とか大丈夫そうだ。ただ、Tシャツ の乾きは不十分でもう少し干したいところだった。

 Tシャツは諦めるか、と思っていると、洗っていないポロシャツが視界に入った。このシャツは Tシャツの上から着ていたもので、汗をかなり吸い込んでいるはずだった。他の物と同時に洗おうかと 思ったが、変に皺になるのを恐れ、そのままにしておいたものだった。僕はこのシャツを直に着る ことで、外出準備が整ったことを知った。本当は直接肌に触れないほうが、清潔かと思ったが、毎日 違う町で違う人に会うのだから汚れていてもいいやという、不埒な考えがここでも芽生え、僕は 実行してしまった。

 外に出て近くのレストランを覗くと、テーブルのひとつひとつに蝋燭が点され、素敵な夜が演出 されていた。その蝋燭に僕の小心は降参してしまった。せっかくブルゴーニュまできているのに、 あの蝋燭一つのために中に入れなかったりするのだ。悔しいがもっとカジュアルな店にしようと 思った。

 駅を背に歩いて行くと、サンドウィッチ屋があった。メニューが写真で飾られてあり、サラダ などもあるようだ。僕が店の前でその写真を見ていると店主が声を掛けてきた。スタンドバーの ようなその店は、少しカジュアルすぎてワインなどメニューになさそうだったが、声を掛けられて 断るのもなんだしと思い、写真を指差してサラダを注文してしまった。飲み物は缶コーラを頼んだ。 店も若者で混雑していたが、彼等が去ってしまうと、客は僕だけになった。ちょうど店主と目が合い、 英語でいろいろと質問された。僕はワイン畑を見て感動したと言ったが、店主もロマネコンティに ついては興味がないようだった。これからどこに行くと言われ、パリに行くと答えた。その後はどこへ 行くと聞いてくるので、ロから出任せにスペインだと答えた。すると店主も身を乗り出して、それなら ポルトガルも行くべきだと説く。さらにモロッコはおもしろいぞと、力を込めて言い出した。店主は 楽しそうにモロッコへは簡単に行けるので安心しろと言う。僕はこのときは会話の流れ上、頷いていた が、この会話が気に掛かり、当初行く予定でなかったスペインに行きたくなってきた。モロッコまでは 日程的にきついが、ポルトガルまでなら何とかなりそうだった。店主は立て続けに質問してきたが、 僕がパンを喉につっかえたのと、お客が何人か来たので、会話は中断した。実を言うとそのときの 質問が聞き取れなかったので、パンをつかえた振りをしていたのだが。

僕は店主が注文とりに追われているすきに、店を出ることにした。

 ホテルの前の映画館では、イギリスのMr.ビーンを上映していたが、時間が合わずホテルに戻る ことにした。先ほど入り損なったレストランでは、紳士が一人食事をしていた。テーブルには 蝋燭とイタリアワインのキャンティが置かれている。ブルゴーニュ地方でもイタリアのワインを飲む のかと驚いたが、それよりも僕を安心させたのは、一人で食べる紳士の姿だった。紳士と言うより 太ったオヤジさんといった感じの男が、一人で食事をしているのだ。さらに店内の至る所に一人の お客はいるではないか。その光景は僕に一人で食事をする抵抗感を払拭させるものだった。

 なんだあんな不細工なオヤジでも一人で食べてるじゃん。

 僕もこれからは堂々とレストランで食事をしようぞ。金はある。あとは勇気だけだ。このときから、 僕は普通の食事ができる喜びに包まれたのだった。日本を出て4日日の夜の出来事だった。

 ホテルに戻ると、旅の疲れが出てきた。途中で買った水を飲みながら布団の奥深くに身を沈め 長かった一日を終えようとした。眠る前に暖房機の前のTシャツに触れてみたが、乾くのにはもう少し 時間が掛かりそうだった。

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