12月3日(水曜日) パリの素敵な夜の巻

 朝の目覚めは良かった。さあ、いよいよオランジュリーだ。僕は地下鉄のコンコルド駅で降 りて、一目散に美術館を探した。簡単に見付かった。日本人もたくさんいた。

 モネの睡蓮。

 僕はこの絵の中に2時間はいた。正確にはこの絵から脱出するのに2時間以上掛かったとい うべきだろう。この絵は二部屋に分かれて展示されていた。手前の部屋は比較的明るい色彩で 描かれており、奥の部屋はそこに描かれた柳の木の影響だろうか、かなり暗い印象だった。僕 は奥の部屋に座っていた。360度睡蓮が描かれている。部屋の中央には平らな椅子が置かれ ていて、僕はそこに腰掛け、一番奥の部分を長い時間眺めていた。最初この絵を見たとき、こ れがあの睡蓮かという印象しか持てなかった。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐ほどの感動もなく、ピカソのゲルニカほどの衝撃も なかった。ただのでかい絵というか、部屋全部を使った企画物という感想だった。どうしてこ の絵を友人Nは熱っぽく語ったのだろう。僕には分からない感覚だった。僕は絵そのものを眺 めながら、実は彼の事を考えていた。彼との出会いから、この睡蓮の絵、阪神大震災、結婚を 経て、今日疎遠になるまでの過程をなぞってみた。そこには10年の歳月が流れていた。10 年も経てば人は変わってしまうのか。

 僕は彼との思い出を一つ一つ辿ってみた。それはあたかも岩井俊二監督作品「ラブレター」 で、中山美穂演じる主人公の藤井樹が、同姓同名で異性の同級生との思い出を文通を通して思 い出しているかのようだった。思い出してみれば、この10年間にいろいろあったわけで、僕 とNとのこれからの10年に比べれば今までが濃すぎたのかもしれなかった。

 僕には過ぎ去った歳月に、未練があったのかもしれない。離れ行く友人を引き止めようとし ている気がしないでもない。ホームシックならぬフレンドシックに陥っているのかもしれなか った。

 絵の前の僕には、邪念が多すぎたのかもしれない。1時間以上も睡蓮を見つめているのに、 全く心の高ぶりが聞こえてこない。なぜこの絵がそんなに凄い絵なのか、皆目見当も付かなか った。僕は立ち上がり、絵をもっと真近かで見ようと歩き出した。絵は部屋のカーブに合わせ て湾曲している。この絵はここでしか観賞できないようになっている。持ち出すなら部屋ごと 持っていかなければならない。

 そろそろ腹も減ってきた。ルーブルの裏手に食堂でも探そうか。そう思って絵から離れ、出 口を探した。その瞬間僕の足は金縛りにあったかのように止まってしまった。

 この巨大な絵に太陽を見付けてしまったからだ。360度沼と柳とスイレンしか描かれてい ないのに、この位置に立つと太陽の位置がはっきりと分かる。沼を照らす日光がある方向から 射していた。太陽そのものは全く描かれていないのに、僕にはその光の加減で太陽の位置をは っきりと認めたのだ。

 太陽が、燦々と沼に光を送り込んでいる。その光は水面を反射して、僕までも照らしている ような感覚に陥った。これかもしれない。友人Nが語っていたのは、この光なのかもしれない。 僕は静かな室内で小躍りしたい気分だった。僕の両方の拳が堅く握られていた。

 この堅い拳はロマネコンティの時と同じ堅さであり、シャトー・ムートン・ロートシルト、 シャトー・パルメ、最後の晩餐、ゲルニカの面前で握り締めた拳に、そっくりだった。再び、 僕の心の芯が震え出した。この震えはしばらく続いた。それが証拠に僕はこの部屋から一歩も 出られなくなってしまったのだ。太陽の位置が分かっただけで、どうして絵全体の印象が変わ ってしまうのだろうか。光の暖かさと、影の寒々しさが僕の皮膚を取り巻いていた。大袈裟な 表現をすれば、僕がこの絵の中に取り込まれたのだ。一度絵の一部になってしまったからには、 そこからの脱出は困難を極めた。すでに金縛りは解けていたので自由には歩けた。しかしその 自由はこの部屋の中でのみだった。

 僕は恐ろしくなってきた。暗い沼に引きずり込まれそうでもあるし、なにより部屋から出ら れないのだ。空気が重い。酸素が足りない。僕は何度も脱出を試みた。出たり入ったりを3度 か4度繰り返しただろうか。勇気を絞って部屋から脱出するも、どうしても舞い戻ってしまう。 僕は焦った。これはイカンと思った。僕は息を止めて、睡蓮に目を合わさないようにして、一 歩一歩力強く踏ん張った。そして出口付近では、走るように、逃げるように場外へと跳びだし た。

 空気がうまかった。パリの12月の空気がとても清々しく感じられた。この感覚なのだろう か。悪夢のようでもあり、楽園のようでもある。これだったのか、あの時のNが熱く語ってい たのは。

 モネの睡蓮から解放されて、僕は街に戻った。オペラ座の近くでランチをとった。もう一人 での食事にも怖じ気づいたりしないのだ。楽勝だ。ただ、メニューが日本語で書かれており、 日本人向けの店の大半がそうであるように余り美味しくなかった。食堂で郵便局の場所を聞い て、ようやくシャトー・ディケムの郵送に成功した。航空便で10日くらいかかるという。こ こはワインの無事を祈ろう。

 腹も満たされ、ワインも郵送してしまってさて何をしようか。ところで今夜はどの街に行こ う。時刻表によれば、パリからウィーンへはミュンヘンを経由した方が良さそうだった。ミュ ンヘンの手前にはドイツの温泉街バーデンバーデンもある。そこで旅の垢を落としてウィーン でオペラだ。ミュンヘン行きの夜行は10時すぎに西駅から出る。よし、それに決定だ。とこ ろでそれまで何しよう。とりあえずルーブルでもいって暇でも潰そうか。天下のルーブル美術 館を暇潰しに使ってしまうほど、僕も大した男になったものだ。

 さっそくルーブルに行った。ガラス張りのピラミッドの下に入りロがある。ちょうど夕方か ら割引き料金が適用されているようで、むちゃくちゃラッキーだった。僕がチケット売り場に ならんでいると、隣のブースにオランジュリーでみかけた女性が立っていた。

 一人でパリにきているのだろうか。僕は知らず知らずのうちに彼女の後を歩いていた。しか し僕は小心者だった。いざ声を掛けようと思ってみたものの、思うように言葉が出てこない。 情けない。ああ情けない。僕はタイミングを失って、彼女の後を付いて回ることになってしま った。ところが彼女の足取りが早い。エジプトの彫刻が展示されているのだが、全く見向きも しないでひたひたと歩いていく。どうやら彼女はモナリザを探しているのだろうと思った。そ れならそうと言ってくれれば、僕が案内してあげられるのに。僕はこう見えても過去にこのル ーブルでモナリザもミロのビーナスもみているのだ。

 話し掛けるきっかけを見付けた僕が彼女に近付こうとすると、学芸員のフランス青年が彼女 に声を掛けた。あれれ。先を越された。二人の会話は長くなりそうだった。僕は間が持たなく なり、少し離れたところで興味もない彫刻を見たりして過ごした。

 残念だ。やはりタイミングを逃した不明を恥じよう。そう思っていると意外に早く彼女が戻 ってきた。彼女は近くのベンチに腰掛け、館内の地図を広げ出した。チャンス到来。僕はモナ リザの場所を聞く振りをして近付いた。するとあっけなく、彼女も会話に乗ってきた。学芸員 はナンパが目的で、その誘いを断ると急に愛想が悪くなってモナリザの場所も教えてくれなか ったそうだ。僕は知らない者同士、一緒に探しましょうかという雰囲気を見事に作りだし、そ して歩き出した。彼女は神戸の女性だった。特にお互い名前も告げずに館内を見て回った。モ ナリザを探すのには苦労した。やはり世界のルーブルだ。とにかく広い。しかも行き止まりも 多かった。

 ようやく見付けたモナリザの前は予想通りの人だかりだった。さて、しばらくぶりのご対面 だ。ゆっくり観賞でもするか。

 ところが、彼女はモナリザを一瞬見ただけで、その場から離れようとした。ニケしかり、ミ ロのビーナスしかりだった。写真さえも撮ろうとしない。僕は彼女に興味を持った。

 有名な絵画の見学を適当に切り上げて、僕らは名もない彫刻の横のベンチに腰掛けた。彼女 は一昨日パリに来て、いきなり風邪をひいてホテルで寝ていたという。日本から持ってきた薬 は使い切ってしまったという。僕は今日の記念にと、バファリンをあげた。

 僕らは初対面なのに、昔からの友人のように喋っていた。旅先では、どうしてこんなにも素 直になれるのだろうか。これはとても不思議な感覚だ。彼女は音大を出て神戸でピアノの先生 をしながらケーキ屋でバイトをしているという。神戸のケーキ屋なら、フーケという東急ハン ズの手前にある店が好きだった。この店のケーキには脇にアイスクリームがついていた。先の 大震災でその店も被害を受け、今ではその味を楽しむ事はできない。僕は神戸の知ったかぶり を演じようと、そんなフーケの話をした。彼女の反応は意外だった。何と彼女はその店でバイ トをしていたらしい。僕もよく通った店だから、もしかしたら何年か前に会っているかもしれ ない。奇遇だ。

 馴染みの店の共通点が、僕らを親密にさせた。そしてなにより彼女に興味を持たせたのは、 彼女が写真を撮らない理由だった。それは思いもかけない理由だったが、核心を突いていた。 そして僕もかつてそんな事を思ったりしたものだった。

「写真では音が残せないから」

 音大出身のピアノの先生らしい答えだった。音が残せない。車のクラクションや通り過ぎる バスの排気音。地下鉄の車内でオヤジが弾くギター。レストランでの食器が重なる音。石畳を 歩く音。シャンゼリゼにはシャンゼリゼにしかない音があるという。凱旋門の写真は、自分の カメラでなくても、テレビでも写真集でも幾らでも巷にある。しかし、この凱旋門の音はビデ オカメラやテープでは表現できないという。この音は持って帰れないのだ。優しい神戸言葉で 語る彼女に、僕は一々感銘を受けざるを得なかった。

 石でできたベンチの座り心地が悪くなってきた。館内が冷えてきたのだろう。ベンチがだい ぶ冷たくなっている。僕らは席を立って、夕食でもしようかということになった。なかなかい い展開に我ながら満足だ。

 夕暮れ時のシャンゼリゼは美しかった。街路樹は電飾で彩られ、石造りの建物は綺麗にライ トアップされていた。ルーブルからは遠くに凱旋門が見える。僕らはシャンゼリゼの適当なレ ストランを探した。

 シャンゼリゼを歩きながらも僕らは話を続けた。僕は得意のワインの話を展開した。自分の 誕生年のワインには何がいいか。彼女の素朴な質問に僕は、シャトー・カロン・セギュールが いいと薦めた。このワインはラベルにハートのマークがあしらわれている。このワインは、か つてメドック地区の有名シャトー(ラフィット、ラ・トゥール、ムートン)を所有していたセ ギュール侯爵が、最も愛した酒として知られている。それにちなんでハートのマークがあるの だという。メドックの格付けでは3級に甘んじているが、とても歴史があり、燻銀的ワインだ と思っている。そんな薀蓄の一つも披露してしまうのが、ワイン初心者の悲しい牲だ。しかし 彼女は僕の話を熱心に聞いてくれている。そんなに真剣に聞かれたら惚れてしまうではないか。 話しているうちに、僕も彼女の生まれ年の1974年のワインを探したくなってきた。

 シャンゼリゼを歩く人は皆幸せそうに見える。ある者は抱き合いキスをする。ある者は手を つなぎ、ある者は腕を組み、なんだかとても幸せそうだ。僕らは特に離れるでもなくくっつく でもなく歩いていた。一人で歩くよりも大いに幸せだった。やはり、夜のパリは一人で歩くも のではないなと実感した。

 僕らはしばらく歩いて、あるカフェテリアに腰を下ろした。日本人の団体客もいて、彼らは ボージョレー・ヌーボーを空けていた。そういえば、僕も日本を発つ直前の11月の第三木曜 日にボージョレー・ヌーボーを飲んでいた。

 さて僕らは何を飲もうか。そう自問する前に答えは決まっていた。美しい女性と飲む酒はあ れしかない。シャンパンだ。百歩譲ってもシャンパンしかない。言いそぴれていたが彼女は色 白の美人だった。場所はパリ、しかもシャンゼリゼ。相手は美女。クリスマスまであとすこし のそんな夜だ。ついさっき知り合ったばかりとはいえ、OPTの全てを満たした夜に飲む酒は、 昔からシャンパンしかないのだ。僕がそう決めたのだ。

 僕はテタンジェ社のブリット・レゼルブを注文した。TAITTINGERと書いて、テタ ンジェと読む。これだからフランス語は難しい。不器用にウェイトレスが栓を空けてくれたが、 せっかくのステージなのだからもう少し美しく空けてもらいたいところだった。フルートグラ スにシャンパンが注がれ、乾杯だ。

 料理も肉の盛り合わせが運ばれてきたが、これは余り美味しくなかった。料理に舌鼓を打ち ながらも僕らの会話は絶えることがなかった。例えば、こんな話をした。彼女が友達同士でグ ァムだかハワイに旅行したときの事だ。普通女の子たちは、朝起きて化粧をしたり、お喋りを したりしてなかなか行動に移さなかったりする。彼女は友達とお昼にロビーで会うことにして、 外に出たらしい。彼女の友達は、のんぴりとホテルで寛いで待ち合わせ場所に行ったらしいの だが、彼女はその僅かな間に空を飛んでパラシュートで降りて来た。音大出というのはそんな 変わった人ばかりなのだろうか。

 それにつけてもシャンパンの泡というものは美しいものだ。水槽の泡とも違うし、ビールの それとも違う。清涼感に満ちたその泡は、一筋の標をたてながら上へ上へと登っていった。彼 女の白い頬が、シャンパンに染められて行く。ここはパリ。

 そろそろ夜行の時間が近付いてきた。彼女もそろそろホテルに戻るという。食事を締め括る 珈琲を飲み干した時、僕は彼女の名前を知った。ヤマウチさんだった。名前も知らずに、今ま で良く盛り上がったものだ。まるで映画「11人の怒れる男たち」のエンディングのようだ。 陪審員たちが審判を終えて法廷を出て、始めて自己紹介するシーンを思い出す。

 日本で彼女に出会っていたら、間違いなくホテルまで付き添って、すきあらば情事を狙って いただろう。しかしここはパリ。旅の恥はかけ捨てとかいうが、やはりこの街で出会えた奇跡 を思うとき、そんな不埒な行動は取れなかった。もう二度と会う事もないのだから多少強引に でも行動しても良さそうだが、旅の奇跡を汚すようで何もできなかった。

 僕は本当に小心者らしい。ヤマウチ エミさんを地下鉄の駅まで送り、最後に握手をしたら 彼女の手がとても温かかった。パリの寒い風が僕を包む時、僕の右手だけがこの温もりを覚え ていた。「雪国」の主人公の指先に残る感触は、この温もりのことなのだろうか。

 僕は右手をポケットに突っ込み地下鉄に乗り込んだ。

 彼女がルーブルで言った言葉が耳から離れない。音は写真に残らない、か。僕はパリ発ミュ ンヘン行きの夜行電車に揺られながら、新宿コマ劇場の一幕を思い出していた。

 萩尾望都原作、野田秀樹演出の 「半神」 という劇団夢の遊眠社の芝居だった。物語はレイ・ ブラッドベリの 霧笛 が題材となっている。物語の主人公は双子の姉妹、美しいが知恵遅れの女 の子と不細工だが賢い女の子。彼女たちが普通の双子と違うところは体が結合していること。 やがて彼女らが10歳になる時、生命の危機が訪れる。二人を分離しなければ、二人とも死に 至る。分離手術が急がれた。しかしここで問題が二つあった。二人は各々独立した生命体だっ たが、心臓だけは共有していた。つまり心臓は一つしかない。これが第一の問題。そして第二 の問題は、心臓をどちらかに与えるか、だった。

 ドラマは双子自身の葛藤、両親の葛藤、ドクターの決断をものの見事に展開していく。最終 場面、分離手術の後ドクターたちがこんな事を言う。

 「ヒトになる子には、孤独をあげよう。そしておまえには、音を作ってあげよう。この世の 誰も聞いたことがない音、この海原ごしに呼びかけて船に警告してやる声がいる。その声を作 ってやろう。これまでにあったどんな時間、どんな霧にも似合った声を作ってやろう。たとえ ば夜ふけてある、きみのそばのからっぽのベッド、訪うて人の誰もいない家、また葉のちって しまった晩秋の木々に似合った・・・そんな声をつくってやろう。泣きながら南方へ去る鳥の 声、11月の風や・・・さみしい浜辺によする波に似た音、そんな音をつくってやろう。それ はあまりにも孤独な音なので、誰もそれをききもらすはずはなく、それを耳にしては誰もがひ そかにしのび泣きをし。遠くの町できけばいっそう我家があたたかくなつかしく思われる・・・ そんな音をつくってやろう。おれは我と我が身を一つの音、一つの機械としてやろう。そうす れば、それを人は霧笛と呼び、それをきく人はみな永遠というものの悲しみと生きることのは かなさを知るだろう。(戯曲半神より)」

 僕はこの芝居が好きだった。台詞を暗唱して役者になりきったりした。この芝居を観たのは 大学時代だったと思う。あれから10年近い月日が流れ、いつしか、音を忘れていたような気 がする。久し振りに異国の電車で台詞を口ずさんだりした。案外、覚えているものだった。

 音か。僕がこの文章を書いているのも、自分なりの音を残したかったからかもしれない。写 真ではこの「音」は伝わらない。音は日本に持って帰れないのだ。

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