ニューイヤーコンサートとブルゴーニュワイン
 
 小澤征爾指揮によるウィンーフィルハーモニー管弦楽団演奏のニューイヤーコンサートのCDが売れているという。クラシック界としては異例のミリオンセラーも夢ではないらしい。神奈川県内の売り場には「売り切れ・次回入庫日未定」の文字が各店舗に張られたりしている。私もまだ買いそびれているうちの一人である。

 毎年1月1日にウィーンの楽友協会の黄金のホールで開かれる恒例のニューイヤーコンサートに、今年初めて日本人指揮者が登場した。世界の小澤である。ウィーンフィルによるニューイヤーコンサートは、ヨハンシュトラウス父子の名曲を中心に演奏され、ポルカやワルツなど心踊るような名曲が、世界一流の指揮者によって世界中のお茶の間に届けられている。私も数年来、楽しませていただいている。このコンサートの最大の特徴はアンコールにあるだろう。毎年3曲がアンコールとして演奏され、ラスト2曲は常に同じである。「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」の2曲。「美しく青きドナウ」は、演奏のオープニングを観客の拍手によって遮られ、指揮者が新年の挨拶をすることになっているヨハンシュトラウス二世の名曲である。そして「ラデツキー行進曲」は、ヨハンシュトラウス二世の父が作曲した名曲で、観客全員の手拍子とともに演奏され、このコンサートのクライマックスであり定番中の定番である。この曲がないとこのコンサートは終わらない。このラデツキー行進曲をはじめて観たときの感動は今も心に新しい。ホール全体の手拍子に鳥肌が立つほどの興奮を覚えたものだ。ヨーロッパの新年はなんとすばらしいことか。毎年替わる指揮者の顔ぶれたるやすごいものがある。リカルド・ムーティ(注) ズビン・メータ(注) ロリン・マーゼル(注) そして再びムーティが登場し、ついに小沢の登場である。盛り上がらないわけがない。今年もまたすばらしいコンサートであった。

 ニューイヤーコンサートで演奏される曲目は毎年ほとんど同じで、初めて演奏される曲には、どれとどれだという解説がつくほどである。オーケストラはウィーンフィルである。毎年同じオーケストラが同じ曲を演奏しているコンサートなのだ。過去に見覚えのある奏者を見つけては、あのおやっさんの白髪も増えたなとか、あの兄さんもがんばってるなどという感想も漏らしたりする。一年に一度、同じ場所から同じ時刻に、同じ奏者によって奏でられる同じ音楽。唯一違うのは指揮者のみ。このコンサートが毎年待ち遠しいのは、やはり音楽のすばらしさもさることながら、指揮者の個性なのだと思う。同じ曲でも指揮者によってまったく趣が違う。指揮棒一振りでムードも変わる。この違いは今年初めてこのコンサートを見た人なら、来年見るときに感じる喜びだろう。

 ところでこの同じシリーズはどこかで覚えがある。そうなのだ。ブルゴーニュワインと共通するのである。ブルゴーニュは畑毎に格付けがあり、同じ畑を複数の生産者が同じ年に造っている。同じ畑から収穫された葡萄を醸造してワインを造ってもそれぞれに味が異なる。同じワインなのに個性が違う。官能を誘うものもあれば、料理酒になり兼ねないものもある。違うのは造り手のみ。ここにブルゴーニュの醍醐味がある。そしてコンサートでも複数の楽曲が演奏されて、それぞれに感動も違うように、畑にもいろいろ個性があり、名前も異なっている。いい造り手のワインはいいコンサートと同じ喜びに包まれる。同じ生産者でも畑が違えば当然味も異なる。同じ畑から同じ生産者が造っても毎年味が違う。これは葡萄が大地の影響を最も受けやすい果実だから。ここが面白い。ブルゴーニュの葡萄品種は赤白ともに1種類ずつなので、葡萄で細工をするわけにはいかない。これこそがつらくもあり、楽しくもある。ボルドーワインにはない特色である。ワインは高く、特にブルゴーニュは二度と手に入らない可能性もあるので、偉大な造り手のおいしいワインを飲みたくなるのが心情である。その情報をうるためにコメンテーターの評価が重要になり、その評価がワインの価値そのものに影響を与えたりしている。

 そして楽曲に譜面があるように、畑には法律がある。その法律こそAOC法である。畑の場所を限定し、そこに統制を加えることによって品質の向上とまがい物の排除を行っている。それはちょうど「ラデツキー行進曲」に譜面があり、音符の配列が決まっているのと同じように、「シャンベルタン」という畑には「シャンベルタン」を名乗るためのルールがある。畑の場所であり、葡萄品種であり、醸造方法などである。音楽に名曲という評価があるように、ワインにも銘醸という評価がある。そしてワインと名曲が違う点を挙げるならば、それこそ法律の有無だろう。名曲は音符の配列が違えば必然的に曲になるが、ワインはそうはいかない。まがい物を造られては優れた能力を持たない限り、飲む前に「シャンベルタン」でないことを断定することは難しい。ボルリングされ出荷されてからでは、消費者はそのラベルの表記を信じるより仕方がない。そしてそのラベルを法的にコントロールするためにAOC原産地呼称統制法が制定されている。AOC法は畑毎に格付けを行って、消費者に情報を提供している。特級畑を頂点に、一級畑、村名畑、地区名畑、地方名畑等々、ワインが畑の影響を最も受ける酒であるがゆえの必要な情報なのだ。そして基本的に、一部の極稀な例外を除いて(注2)、ワインは格付けに従って味わいや価格が決定されている。特級ワインのほうが、一級ワインや村名ワインよりも評価が高く、そして高価なのだ。宮中晩餐会では特級ワインしか出ないのは至極当然で、いくら貴重だからといって、よりによって何で私のときに一級ワインなのと憤慨されては接待にならない。正当な評価と伝統が特級ワインにあるからだ。貴重なワインは、それを飲むための別の機会に飲まれるべきなのだから。そのときはぜひ声をかけてもらいたいところである。

 話をニューイヤーコンサートに戻そう。小澤征爾とズビン・メータは共にコンサートのラストで「ラデツキー行進曲」を演奏している。同じ曲を譜面どおりに同じオーケストラ奏者と共に演奏している。小澤がスローテンポなのに対し、数年前のズビン・メータはアップテンポにタクトを振った。指揮者の個性が曲の個性につながっている。なんともすばらしい。名曲の名曲たる味わいをそれぞれに演出している。世界最高レベルの演奏会には、音符のミスタッチなどありえない。誰もそんなことは心配することもなく、大いなる名曲を楽しんでいる。それはニューイヤーコンサートが世界最高の演奏会であることを知っているからだ。アンコールの定番である「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」は、誰もがその演奏を心待ちにしていて、この2曲がなければコンサートは終わらない。暗黙の了解事項であり、伝統の重さである。

 ニューイヤーコンサートでは指揮者の存在が大きいが、ブルゴーニュの場合はどうだろうか。同じ畑でも醸造家によって味わいが異なるのだから、醸造家を知ることがワインを楽しむことである。この文章の展開はその答えを導き出そうとしている節はある。しかし私は、自分で書いておいてなんだが、違うと思っている。コンサートの指揮者にあたる人は醸造家にあらず、飲み手自身にあると。ワインをワインとして本当に楽しむには、醸造家の違いや畑の格付けを見極められる人が必要である。なぜならば、音楽は観客として小澤のタクトを堪能するだけだが、ワインは誰かがそれを注がなければ飲めないのだから。ワインは醸造されただけでは口に入らない。コルクを抜栓して、それ相応のグラスに入れてこそ楽しめる。醸造家はワイン造りが仕事であって、地球の裏側の我が家にまでは来てくれない。ワインに長けた人とは誰か。レストランならソムリエであり、ワインセミナーで飲むなら講師であり、プライベートで飲むならワインをこよなく愛する友人や先輩方である。そして彼女と二人きりで飲むなら、自分自身がならなくてはならないと思う。

 私の経験上ワインは、テニスやスキーと違い、自分より圧倒的な知識を持つ人と飲むほうが、格段に楽しい。テニスではレベルが違いすぎるとラリーが続かないし、スキーでもどちらかを待たせたり、現地別行動の昼ご飯集合になりやすい。同じレベルか少し上の人と楽しんだほうが、お互い気疲れしないですんだりする。ところがワインはこの星に何千種類もあり、年毎に味も違うとくる。どれをどうやって飲んだらいいか、皆目見当がつかない中で、ワインに長けた人がいると俄然おいしくなる。その人の情報を共有できるからである。リフトに乗り遅れることもなければ、玉拾いの回数が多くなるわけでもない。おいしいワインの飲み方を知っている人は、おいしいワインを飲ませてくれる。その人こそ、ワインを楽しむための指揮者であり、その指揮者が持っている技術や醸造家情報を交えながら、予算や嗜好に応じてワインを楽しむ夜はかなりイケテイル。

 ニューイヤーコンサートの指揮者には誰もがなれないが、ワインの指揮者はこの街にも意外に多い。誰かの指導を得ながら大いに楽しみたいところである。そして私自身も、その立場の末席をそろそろ汚してもいい頃ではある。造り手が誰それならばどの畑を楽しむか。この畑ならば誰を楽しむか。目の前に置かれたワインをどうやっておいしく飲むか。夜の宴、どの醸造家に何の楽器を弾いてもらおうか。楽器の選択から曲の演奏まで、ワインの指揮者は、世界の小澤と比べてもいいと思うくらい頭と体力を使う。ワインの指揮者が奏でる夜を大いに楽しむためには、ワインに対して、「美しく青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」がニューイヤーコンサートの大定番であることと同等の認識が必要である。この2曲を待っている人と、偶然聞こえた人との情報量の格差は、感激の大きさに比例しているはずだ。ワインも同じ。せっかくのおいしいワインは、余計な説明を加えないほどにおいしい。そのおいしさに耳を済ませたくなる。そう、ワインは音こそ立てないけれど、音楽と同様に音を楽しむことができるのだから。究極のワインは、人を黙らせて無音にする迫力がある。音のない世界をワインで楽しみたいものである。世界一というカテゴリーで共通するブルゴーニュワインとウィーンフィル・ニューイヤーコンサート。認識こそ感動の源であると誰かが言ったような記憶が蘇る。

 ところで何でこんな文章を書いたのか。二つほど原因がある。ひとつは小澤のCD売上のニュースを見たこと。そしてもうひとつは開高健の「ロマネ・コンティ・1935年」をカルバドス片手に読み耽っているためである。この作品は、世界一のワインと闘ったことのある人やその気持ちがある人には必読の名著である。それはさておき、開高はその著書の中でワインについてこう語っている。そのあまりにも短い文章に、ワインのすべてが凝縮されていることに驚愕する。開高が一言で言いきったワインについて、若輩者の私はこんなにもスペースを割いている。にもかかわらず、まだその一言に迫れもしない。ふがいなさを表に出すようで恐縮だが、この文章のまとめとしてここに紹介してみたい。文春文庫版の155ページ1行目にそれはある。 「ぶどう酒は土の唄なんだからね。」
 今宵もまたおいしいお酒に感謝である。

 
以上


注>  <本文に戻る>
リカルドムーティ ちなみにヨーロッパてぶら旅の途中ミラノ・スカラ座で観劇したオペラ・マクベスの指揮をしていたのはこの人である
ズビン・メータ 私の知る唯一のインド人にして最も敬愛する指揮者である

ロリン・マーゼル あまり知らない

<極稀な例外> <本文に戻る>
コルディエの1998ピュイイフュイッセ ジュリエット・ラ・グランド など



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